ソビエト時代(9

〜〜 共産体制延命策 〜〜



レオニート・イリイチ・ブレジネフ
Булезнев, Леонид Ильич
1907-1982

1923
年コムソモール加入、1931年入党
 共産党中央委員会書記長(1964年から)、最高会議幹部会議長(1977年から)

党支配を強化、停滞時代を生む。

 


Россшйская
История

Россшйская
История


 


 πντες γρ ο λαβντες μχαιραν ν μαχαρ πολονται.

 ―というのは短剣を取る全ての者は、短剣によって破滅するからである―


滞の時代と呼ばれますが、経済的には停滞でも、外交的には、ソ連が最もアクティヴだったのがこの時代です。ソ連指導部は莫大な開発資金を食う宇宙旅行レースからは手を退き、地上の問題に目を向けました。東欧では東ドイツを、東南アジアではベトナムを、中東ではエジプト・シリア、のちにイラクを、アフリカではコンゴを橋頭堡とし、まさに全世界へその覇権を広げていったのです。マルクス・レーニン理論に従った、永久革命理論の実践とでもいいましょうか。

  しかし、覇権主義は非常な費用と労力を要し、特にそれが身分不相応の場合は、国を疲弊させ、滅ぼしかねません。この傾向に追い討ちをかけたのが石油価格の低迷です。ロシア経済が石油頼みなのはプーチン政権の現在(2006年)に限った話ではなく、旧ソ時代からです。この時期の石油価格の低迷は、石油を売って稼いだ外貨で西側の機械・技術を購入していたソ連経済をじわじわと圧迫し、1985年からの石油価格の暴落はアメリカ国内の石油業者を痛めつけ、アメリカの石油自給計画に影を落としましたが、何よりソ連経済を直撃しました。

 そのせいでしょうか、ブレジネフ時代末期、ソ連指導部は世界の油田地帯、ペルシャ湾に一気にプレッシャーをかけます。油田地帯に手を伸ばすことで石油安定を揺さぶる、もしくは手中にすることで起死回生を図ったのか、ともかくアフガニスタン侵攻も、イラン・イラク戦争におけるイラクへのソ連の肩入れもこの 湾岸地域におけるソ連の軍事影響力を及ぼそうとする行為の一環です。

 だんだん水が腰の辺りまでせまってきた感が漂い始めた時代ですが、この時期、ソ連は停滞を代償に安定を手に入れます。1966年の党大会では、ソ連時代に入り始めて消費財の重視が打ち出され、1967年には週休二日制が導入され、1965年から自動車の個人所有が自由化されます。

 ー「ソ連時代とロシア時代、どちらがよかったのか本当にわからない。」ー

 あるいは、

 ー「ソ連時代の生活・制度にノスタルジーを感じるよ、もう絶対にもとにもどらないし、もとにもどるのはもう不可能だってのはよくわかってるんだけどね。」ー

 というようなコメントをロシア人から直接聞いた事がありますが、そのように、ソ連時代によさを見出す人たちは例外なくこの時代に青春期を過ごした人達です。最近の若いロシア人はスターリンなんて話にしか聞いたことがないですし、それどころかソ連時代を知らない世代も登場しております。 もちろん、自由主義諸国からすればブレジネフ時代もずいぶんと自由がなくて暮らし難く感じられるでしょう。

  モスクワやサンクトペテルブルクには居住制限が設けられ(婚姻や警官になる、あるいは土木作業などの肉体労働を何十年かつづける、偽装結婚する、モスクワの離婚率の無闇な高さはここにも原因があるので すが、ヤミアパートに住む、ワイロに走る、いずれかの条件を満たさない限りよそ者はモスクワには住めなかったとの話です。)、現在でもそうですがいまより厳しいプロ ピースカ制がございました。これは国内パスポート制度、戸籍にあたるものでして、17才から強制配布される国内用パスポート(事実上のIDカード)には両親の名前、民族、婚姻の有無などが記録され、国から特定のアパートを割り当てられた、あるいはあるアパートに住む両親の子供として生まれた場合に認められる居住権、就職を保証しています。

  簡単にいえば、本籍地以外での居住と就労はソ連時代は、そしてだいぶ既成が緩和されたとはいえ現在のロシア時代でもかなり、不可能に近いものがあったわけで、まるで移動制限のあった中世です。ですから、オリンピックで金メダルとったらモスクワのアパート支給というのは本当に破格の恩恵だったわけです。つまり、ロシアには旅行などに使う国外用のパスポートと、国内用のパスポートのふたつがございます。これらを考えますと、残念ながらアレクサンドル2世の農奴解放令はいまなおその道義的な価値が衰えないと言って差し支えございません。

  話がずれましたが、しかし、考えてもみてください。いくらブレジネフ時代が不便とはいえ、20世紀においてロシアが、「停滞」といわれるほど落ち着いて、裏を返せば安定した時期が一体どの位あったでしょうか。

 20世紀初頭は急激な資本主義・工業化へつきすすみすぎたツケでストライキが続発、第一次世界大戦では戦争のしわ寄せが銃後の生活まで脅かしました。資源・経済・国民生活、国家のすべてを犠牲にする総力戦に堪忍袋の緒が切れて、とうとう革命の大混乱。赤色革命終了後、第二次世界大戦よりも犠牲が大きかったといわれるボリス・パステルナークの描いた内戦・資本主義諸国による干渉戦時代。それが終わったと思ったら、帝政ロシア時代にやり残した工業化、それを貫徹するための飢餓とスターリンの粛清時代の到来。やっと社会主義経済が軌道に乗り始めたと思ったらナチスドイツが一方的に吹っ掛けた第二次世界大戦勃発。敗戦国よりもはるかに大きな人的犠牲を出し、やっと勝ったと思ったら息をつく間もなく20世紀後半〜21世紀前半の最強国アメリカの挑戦。これらにくらべれば、極めて安定し、断じて楽な時代です。

 旧ソ崩壊という大地殻変動の嵐の前の静けさなのか。それとも苦難の道のりの末に成立した共産党政権の、厳しい冬の訪れを前にした収穫の秋、あるいはбабье лето(バービエ・リェータ、女の夏、日本語の小春日和)なのかともかく、人々の暮らしやすさという点から考えると、このブレジネフ時代は、ソ連時代の黄金期といえました。


〜 1. ブレジネフの生い立ちと権力の座に着くまで 〜

 さて、フルシチョフ派で固まったロシア政界から「宮廷革命」を起こすことに成功し、権力を握ったブレジネフですが、彼はウクライナのカメンスコエ(現ドニエプロジェルジンスク)で、ロシア人冶金工の息子として誕生しました。ブレジネフはウクライナにおいてはマイノリティーであるロシア人でしたから、出世のために戦前は自らウクライナ人を名乗り、側近をドニエプロジェルジンスクから抜擢した(彼らはドニエプロジェルジンスク・マフィアと呼ばれました)りなど、ウクライナの影響の極めて強い人物でした。

 ムノーガをムノーホと言ったり、生涯ウクライナ訛りを保った、とある本に書いてありました。が、ハリコフ出身のウクライナ人の方にそのことをお伺いすると、それはどうもウクライナ語訛りでないのでは、というお返事でした。また、訛りといってもウクライナの各地域でそれぞれの訛りがあるとおっしゃっていました。ですから、標準語とのずれを、ある地域の訛りと特定するのもなかなか大変な話のようです。

 1921年、15歳で労働者として働き始めます。1923年、コムソモール(共産主義青年同盟)に加入し、土地改良の学校に入りますが、耕地企画の測量技師に転身、ウラル地区で地区農業部長や地区執行委員会副議長をつとめ、農業集団化を進めます。しかし、スターリンの工業化政策で、共産党系の技術者養成が必要になったので、キリレンコ(元航空機工場の技師、ブレジネフの女房役でのち政治局員・書記)、コスイギン、ウスチノフ(レニングラードの軍事技術 学卒、一貫して軍需畑を歩んだ、いわば兵技部上がりの軍人で、のち国防相)ら、ブレジネフの集団指導を構成する同世代の若者らと同様、ブレジネフもドニエプロジェルジンスク冶金専門学校に1931年入学し、共産党にも入党します。

 1935年、工業学校を卒業し、技術者となりますが、1937年の最後の粛清で、レーニンとともに革命を遂行したオールド・ボリシェヴィキの実力者が政界から一掃されたとき、ウクライナの工業都市のソビエト副議長、やがてドニエプロペトロフスク州の軍事工業関連の党活動へ移ります。このとき、ウクライナの党組織を監督していたのが、同郷人のフルシチョフです。

 第二次世界大戦中は政治将校を務め陸軍大佐まで昇進し、戦後はドイツ軍撤退後の荒廃したウクライナのザポロージェ州第一書記となり、アンドレイ・キリレンコとともに州の復興に携わります。このときの縁が元で、当時第二書記だったキリエンコはブレジネフの厚い信頼を受け、ブレジネフ人脈中の最重要勢力たる ドニエプル派の総帥へとのし上がります。ついで1950年ブレジネフはモルダヴィア(旧ベッサラビア)共和国第一書記となり、当時モルダヴィア共和国党中央委員会宣伝部長・扇動部長を 務めていたチェルネンコとともに、民族問題で重要なこの地を統治しました。

 1918年、ロシア革命のどさくさに紛れ、ベッサラビア国民会議の決定でルーマニア王国に統合されたモルダヴィアですが、この地は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書 でソビエトの勢力範囲とされ、いったんナチス・ドイツの占領下に入るも、最終的にソ連に取り戻されます。しかし、バルト三国やウクライナと同様にこの地で も反ソ連の暴動が首都キシニョフで発生、スターリンは人口300万人のうち1/6を粛清し、補充としてロシア人移民を送り込み、キショニフの人口比をロシア人超過に逆転させたと言われます。

  そのモルダヴィアのソ連化の総仕上げとしてブレジネフが送られてきました。この時期のブレジネフの行動は特にはっきりしておらず、確たる記録を僕は見つけることができず何が起こったのかはわかりません。しかし、ブレジネフがモルダヴィア共和国第一書記を勤め終わった直後の195210月の第18回党大会 で、州第一書記・共和国第一書記クラスから、中央委員クラスを飛び越え、いきなり幹部会員候補兼書記へと破格の出世を遂げたのははっきりしています。

 モルダヴィア共和国第一書記時代、ブレジネフの出世の糸口となったこの大事な時期の片腕だったチェルネンコですが、「レーニンすら読んだことがない」と豪語するブレジネフと異なり、教育大学を出、イデオロギー問題に強かったチェルネンコはイデオロギー問題に暗いブレジネフの好みに合ったもようです。1960年ブレジネフが最高会議幹部会議長になったときはチェルネンコは最高会議幹部会書記局長となり、1964年ブレジネフが第一書記になった翌年 には中央委員会総務部長に転じ、1977年には政治局員候補に進みました。こうしてチェルネンコはモルダヴィア派筆頭にのし上がったのです。

 また、1954年、スターリンの死とともにフルシチョフが実権を握り、カザフスタンの処女地開拓を始めると、初めはカザフスタン第二書記、すぐに第一書記となって、フルシチョフ農政の実務を取ります。このときカザフスタン共和国首相だったのが、ロシア人とカザフ人の両親に生まれたクナーエフです。彼はブレジネフとともに処女地開拓の苦楽をともにし、その甲斐あって1960年カザフ第一書記となりますが、1962年の不作時に農政の責任を取らされフルシチョフにカザフ首相に戻されます。が、ブレジネフが全権を掌握した際にすぐにカザフ第一書記に返り咲き、ブレジネフ人脈のカザフ派重鎮として力を振るい、第24回党大会では政治局員候 補、第25回党大会では政治局員に任命されます。クナーエフがカザフ人脈トップでした。

 その後ブレジネフは1956年から1960年まで党中央の軍事担当の書記として、人工衛星や戦略ロケット開発などをつとめ、あのソ連宇宙開発の父コロリョフらと掛け 合い、世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げに承認を与えるなど、ソ連の宇宙開発を影から支えました。そして、196410月、スターリンと一緒に仕事をしたことのある最後の現役オールド・ボリシェヴィキ世代の一人で、党内抗争・粛清・政権交代すべての大波を乗り切ってきた、「クレムリンの赤い枢機卿」、イデオロギー担当書記のスースロフの力を借り、フルシチョフの追放に成功したのです。






ミハイル・アンドレーエヴィッチ・スースロフ
Суслов, Михайл Андреевич
1902
1982

1921
年入党、イデオロギー担当書記、政治局員、
最高会議連邦会議外交委員長



 フルシチョフを解任した共産党中央委員会総会は、「今後同一の人物が中央委員会第一書記とソ連邦閣僚会議議長との職務を兼任することは不適切である」とし、ブレジネフは、19641014日の共産党中央委員会総会で共産党第一書記(1966年に書記長に名称変更されます)の座につきましたが、当初はコスイギン閣僚会議議長(首相)、ミコヤンが最高会議幹部会議長(1965年からはポドゴールヌィ)となって三人で権力を分担し、「トロイカ」と呼ばれる集団指導体制を採用しました。






アレクセイ・ニコラエヴィチ・コスイギン
Косыгин, Алексей Николаевич
1904-1980

1927
年入党、閣僚会議議長(首相)、経済改革を行なうも失脚



 ブレジネフは以降10年間、フルシチョフ農政のやり損ないを修正し、これまたフルシチョフ時代の不用意なスターリン批判で、たがの緩んだ社会主義陣営の内部固めに専念したため、しばらくは目立つことはありませんでした。ブレジネフはかつてスターリンがやったごとく、共産党中央委員会書記局を手中にし、そこから権力を握ろうとします。196411月、まずはフルシチョフの後継者の最有力候補として見られていたが病に倒れたコズロフ幹部会員・書記を解任、 フルシチョフ農政の総責任者だったポリャコフ農業担当書記を解任します。19653月にはフルシチョフ時代後期の文学・芸術の監督をおこなった党イデオロギー委員会議長イリイチョフ書記を解任します。

 こうして書記局からフルシチョフ直系の人物を排斥した後、ポドゴールヌィの懐刀、チトフ書記を免職し、代わりに19659月、スタブローポリ地方党委員会第一書記のフョードル・クラコフ(ちなみにこのクラコフはブレジネフの跡継ぎと言われていましたが病死してしまい、たなボタ式に出世したのが、彼の下にいた後の書記長ゴルバチョフです)を書記に任命しました。つまりはクラコフがブレジネフ農政の総責任者となったのです。チトフを切られたポドゴールヌィはミコヤンの後任として最高会議幹部会議長に祭り上げられ権力を失います。ブレジネフはさらに19663月、キリレンコを書記とし、正式に女房役に迎えました。この時点でブレジネフの力が表向きにも優勢になりはじめたといえるでしょう。

 そうして自分の権力を盤石にしておいてから、幹部会員(政治局員)、党書記、副首相、党・国家統制委員会議長の四つの党・政府の要職を占めていたシェレーピンを1967年の全ソ労組中央評議会第13回総会で、グリシン議長のモスクワ市党委員会第一書記への栄転に伴い、公認の労組中央評議会議長に選出され、同年9月末の党中央委員総会で書記を解任され、労組中央評議会ビルに勤務となりました。こうしてシェレーピンもノーリターンコースに乗ったのです。この時点でブレジネフは書記局のメンバーの過半数を自派で制することに成功したのです。


   〜 2. 宇宙開発レース(4)ー総帥の死 〜

 だましだましのヴァスホートの帰還から、わずか5ヵ月後、NASAの猛追を突き放すべく、セルゲイ・コロリョフは人類初の宇宙遊泳のミッションに挑みます。1965317日、パーヴェル・ベリヤーエフとアレクセイ・レオーノフの二人を乗せた宇宙船ヴァスホート2号がバイコヌールから飛び立ちました。 実はこのときも突貫作業でして、宇宙服を設計したセヴェーリンには9ヶ月の時間しか与えられず、しかも、実際の宇宙空間での性能をテストするため宇宙服を 積み込んで打ち上げた宇宙船の回収に失敗し、性能を十分テストできないままという恐ろしい状態でした。






アレクセイ・アルヒーボヴィチ・レオーノフ
Леонов, Алексей Архипович
1934-

人類史上初の宇宙遊泳を果たす


下はミッション中のレオーノフ









 そんな悪条件の中、結局レオーノフは17周回地球をまわり、人類史上初めて宇宙空間に出ることに成功しました。こうしてレオーノフは宇宙遊泳の21分間のミッションを果 たしましたが、さてヴァスホート2号内へ帰ろうとした時、宇宙服が膨れすぎてハッチに入れず、12時間苦闘します。さらに、二人の帰還時に自動再突入装置が故障し、コロリョフ自らの決断で手動降下が決定され、なんとか着陸に成功しますが、目標地点から2000km離れたぺルムへの着陸でした。

 しかしさすがはアメリカです、同じ年の65日、エド・ホワイト宇宙飛行士がジェミニ4号(つまりは二人乗り宇宙船です)で宇宙遊泳を成功させてしまいました。さらにアメリカはジェミニ5号(メイン電源の燃料電池が故障し、姿勢制御エンジンも故障したので3日間宇宙を漂流する羽目になりましたが。)で人間は無重力下でも長期滞在が可能であることを示し、ジェミニ6号、7号では史上初のランデヴー(宇宙船の安全なドッキングの前には、二隻の宇宙船が、安定してお互い十分近傍に寄りそった状態を長く続けねばならず、それをランデヴーといいます。)に成功します。

 追いすがるアメリカの前にコロリョフはソ連有人月旅行用ロケット、二人乗りのН-1の開発計画を推進します。196483日に許可を受けたこのミッ ションでは、宇宙飛行士一人が月面に降り立ち、もう一人は指令船で待機するというもので、この二人の宇宙飛行士をつきまで運ぶロケットは、搭載能力75ト ン、打ち上げ重量2700トンという巨大さで、これは後に人類を月に送ったアメリカのロケット、サターンX号の搭載能力129トン、打ち上げ重量2900 トンに匹敵します。

 しかし、ここで重責を一身に担ってきたコロリョフの健康状態が悪化しました。19642月には既に心臓発作で倒れ10日間入院していたにもかかわらず、 レオーノフの宇宙遊泳後には19654月、通信衛星モルニヤを打ち上げます。当時まだ静止軌道に通信衛星を打ち上げるだけの強力なブースターをソ連が開発していませんでしたが、コロリョフは三つの衛星を楕円軌道にのせ、この三つの衛星の協力で広大なソ連邦全域をカバーし衛星通信を可能にするという卓越した方法を思いつき、実行に移したのです。

 さらに月探査機の打ち上げもつづき、(63年から)12回の打ち上げ中10回失敗という凄まじい結果でしたが(ちなみにこの失敗の原因ははんだ不良にあったとのことです。そこで現在は金蝋と呼ばれる金に銀や銅やニッケルなど混ぜた特別なハンダを使用するとのことです。)、それでも196623日、ルナ9号が人類史上初めて月面への軟着陸に成功し(コロリョフの死後20日後です。)、「あらしの海」から月面パノラマ写真の撮影に成功しました。こうして月は探査機が着陸できるほどの硬さを持つことが証明されたわけです。






ルナ9

人類史上初めて月面軟着陸に成功した探査機






ルナ9号が最初に地球に送った月の写真



 196512月、コロリョフは直腸に出血性ポリープが見つかり、手術を受けるよう勧められました。年が明けて196615日、コロリョフはクレムリ ンの特別病院に入院し、111日、胃腸の管からポリープを削り取ります。14日、直腸鏡を使ってポリープを手術を受けますが、止血できないほどの出血がひどいものでした。そこで、執刀医のペトロフスキーが止血のため腹部を開くと、こぶし二つ大のガン性腫瘍がみつかりました。ペトロフスキーはガンの専門化であるヴィシネフスキーを呼び、二人により手術が行なわれますが、手術後心臓が停止し、コロリョフはそのまま帰らぬ人となりました。享年59歳でした。コロリョフは死後、ソ連第二級の墓地、クレムリンの壁の中に遺骨が納められました。後に事故死したガガーリンも、同じくクレムリンの壁の中に埋葬されることになります。

 ソ連の宇宙開発はヴァシーリー・ミーシンへ引き継がれますが、彼にはコロリョフほどのカリスマ性はなく、これ以後どんどんソ連はアメリカに宇宙開発競争で遅れをとることになります。アメリカは、アポロ8号により、フランク・ポーマン、ジェームズ・ラヴェル、ウィリアム・アンダーズら三人を有人月周回軌道 に到達させ、とうとう1969720日、アポロ11号の船長ニール・アームストロング飛行士が、着陸船イーグルから月面に到達し、アメリカが月面到達レースにおいてソ連を抜き去ったのです。時流にうまく乗れたとはいえ、全くの手探り状態であったロケット技術を、自分生きているうちに、とうとう人間を月まで運べるまでにもってきたフォン・ブラウンという人物の凄まじい能力とパワーには驚嘆すべきものがあります。

 その後のソ連の宇宙開発で見るべきは、1969年、ゾント7号が月から1230キロメートルの距離をフライバイし、無事帰ったこと、1970年ルナ16 号が月面に軟着陸し、月の土のサンプルを持ち帰ったこと、ルナ17号の月面車ルノホート(月歩行、とでも言った意味です)1号が月面を11ヶ月歩き回り、2万枚以上の写真を写したこと、1973年、ルナ21号がルノホート2号を月面に送り、8万枚もの写真を写したことなどです。アメリカも、ソ連を抜き去ったことを確認したのち、アポロ17号で二人乗りの月面車を月に送り、月面を22時間走り回った最後の有人月面着陸飛行を行い、アポロ計画を終了させました。






ルノホート1





ルノホートのキャタピラ跡



 この宇宙開発競争ですが、正直な話を言わせていただければ、僕は個人的には非常にすばらしいことだったと思うのですが、ソ連の国益という点で言えばできればやらなければよかったことでありましょう。新規技術の開発には極めて巨額の費用・時間・人材の投入が必要です。確かに先行者は名誉を得ることができますが、その果実を受け取るのは常に二番手です。スペイン・ポルトガルの大航海時代の果実を受け取ったのはイギリス・フランスですし、飛行機を作ったライト 兄弟ですが、その飛行機で大もうけしているのはいまやボーイングです。世界初の実用液体燃料ロケットの開発に成功したのはナチス・ドイツですが、その果実を手にしたのは、アメリカ・ソ連です。実利が欲しくば、無理に先陣を切る必要はありません。

 純軍事的な話に限れば、スプートニクの打ち上げが成功し、気象衛星・通信衛星・スパイ衛星運用(現時点では、あとはキラー衛星くらい)の見通しを立て、 さらにアメリカを脅かす大陸間弾道弾の開発に成功したという点で軍事的な応用はもはや十分であり、さらにそれ以上の成果を目指す計画(月・火星有人飛行など)を遂行するなどは、ソ連経済がこのような巨額な開発費に耐えられない時点に達していたわけですから、とうていやるべきではなかったでしょう。このレースから足を洗うのは、やはり当然であり、ブレジネフの判断は妥当だといえます。

 しかし、この宇宙開発レースのソ連側の総大将(主任設計員)を務めたコロリョフの事跡は、現在の僕の心にも響いてきます。ある程度は理系技術者の宿命とはいえ、名誉もなく(ソ連は宇宙開発者の名前を公表しておりませんでした)、高給も期待できず(共産主義ですからなおさらです)、一度は自分の祖国による迫害を受けながらも、ただひたすらソ連の宇宙開発に一生を捧げたコロリョフのその姿は、もちろん宇宙への情熱ということもあったのでしょうが、自らの属する共同体、ソ連へと自らの能力を捧げ尽くした古きよきソ連人の姿そのものです。

 ここに、ガガーリンによるコロリョフへの言葉を挙げます。それは、コロリョフがその生涯をかけて成し遂げた業績の一覧となっています。

 ー「セルゲイ・パーヴロヴィッチの名前は、人類の歴史のなかでまったく画期的な出来事と結びついています。それは、人工衛星の最初の飛行、月と惑星への最初の飛行、人類による最初の宇宙飛行、そして人類初の自由な空間への脱出です」ー


   〜 3. ブレジネフ内政ー復古と現状維持 〜

 さて、天上の問題から地上の問題へ関心を移したブレジネフ時代の内政ですが、1965年コスイギン首相が中心となって経済改革を進めます。外政的には極 めてアクティヴであったソ連ですが、その実、将来のソ連の総生産高の鈍化が問題となっており、19659月の中央委員会総会で、企業による成功指標を利潤と関係させることを説いた経済学者リーベルマンらを登場させ、企業の独立採算・経済自主性を与える経済改革(新工業管理方式)を提案します。

 しかし、企業への自主性の付与、賃金、ボーナスなどで自由化を進めるこの提案は、一方で経済における共産党支配を弱める行為でして、ブレジネフはこれに乗り気でありませんでした。コスイギン改革が功を奏したのか、1966-1970年までの工業生産では、50%の伸びを示しますが、結局この改革はチェコスロヴァキアの「プラハの春」で終焉を迎えます。以後、石油ショックによる原油高とアルコール消費(ウォッカの酒税で国家財政の1015%がまかなわれたといいます。)でだましだまし経済を維持しつつも、ソ連経済は緩慢な降下をたどり、1980年代に入ると実質マイナス成長に突入します。

 停滞は工業だけにとどまらず、農業でも起こりました。1967年からコルホーズ農民の最低賃金が政府が保証するようになり、近代化がはかられますが、成功した様子がなく、1972年に記録的凶作が発生、1975年の凶作以降はデタントにより可能となったアメリカからの穀物輸入が常態化します。なんせ人間は食っていかねばなりませんから、食料の自給は大事な問題ですが、自給を維持するための農家への補助金が国防費を上回るようになり、ソ連政府にとって重大な問題となります。

 もともとロシアの農地の生産性が低いのは、帝政ロシア時代のニコライ1世の治世から問題にはなっておりました。当時はやむを得ない選択でしたが、共産革命成功後の、とにかく近代化するための急激な工業化の前に農業問題が置き去りになっており、それが火を吹き始めたわけです。核実験にしろ、ロケット発射実験にしろ、農業実験にしろ、とにかくソ連のあらゆる実験が行なわれるソ連内陸部のカザフスタンの実験農場で経済改革派による改革が行なわれましたが失敗、1975年運河建設、非黒土地帯による土壌改良が行なわれますがこれも失敗、中央アジアで綿花生産を増強させますが、灌漑水路の引きすぎでアラル海の 水位低下・干害・塩害が発生します。

 ソ連の農業生産向上の努力は運河建設などの既存技術の拡大でして、これは西側が、開発の試練と市場投入された後の失敗(DDTなど)を重ねながらも、化 学合成肥料、殺虫剤、除草剤(ベトナム戦争でばら撒かれたのはこいつです)、はてまた遺伝子組み替え作物、そこまで行かないにしろ、クローン作物、クローン牛、F1(雑種第1代(first filial generation)、交雑品種改良において、ある2種間から作り出された第一世代のことです。両親からの特徴を良く受け継ぎ、非常に優良な性質を示すことが多々ありますが、繁殖能力が低く、第2代にその優れた性質が伝わらないことも多々あります。レオポンなんかはF1です。)作物、などを駆使して農業生産を質的に向上させたのとは根本的に異なるところです。

 結局既存技術の単なる量的な拡大は、西側の質的向上を凌駕することができませんでした。何度も繰り返しますが、現代においては、一国の科学技術の消長はその国の命運を決するのです。

 そんなわけで1971年の第24回共産党党大会では、フルシチョフの掲げた大風呂敷、1970年代には人口一人あたりでの工業・農業生産高でアメリカを追い抜くという党綱領にはあまり触れず、第八次五カ年計画の成果が「社会主義諸国の経済力を強化し、資本主義との経済競争において、社会主義世界体制の地位を強化するという共通の事業への強大な寄与となった」と言うに留めました。

 1969年から1972年の第1次米ソ戦略兵器制限協定(SALT協定)は無事に締結できましたが、経済にがたが来れば軍事力をはじめ、インフラやら社会生活やら、あらゆる分野にがたが来ます。そこで、国力の衰えを軍事力で隠し、圧倒的な軍事力を背景にデタント外交を押し付けソ連経済に一息つかせようと、この時期ブレジネフは政治局員の改組に踏み切ります。1973年、まず、デタントに批判的だったタカ派でウクライナの党第一書記を9年勤めたシェレストをヒラの連邦副首相に降格し、さらに政治局員から解任します。彼の後釜として1975年、ドニエプル派No.2のシチェルビツキー(1961年ウクライ ナ首相、1971年政治局員)を送り込み、ウクライナを自派で固めました。

 ついでヴォロノフ、ロシア共和国首相のときズヴェノー方式、コルホーズの作業単位を巨大すぎてメンバー同士でも誰が誰だかわからず、ついつい無責任になってしまうブリガーダから、さらに小規模のズヴェノーに改組して、土地と機会を半永久的に貸し付け、ほとんど自分の所有地と扱いがかわらないなら、当然個人がやる気を出して生産性を高めようとするだろう、という個人経営のよさを生かそうとした方法、つまりは集団農業に真っ向から反対する方式を行ったヴォ ロノフを政治局員から解任します。

 1973年新たに政治局に入ったのが、軍幹部の政治局入りとしては、ジューコフ元帥以来17年ぶりとなるグレチコ国防相、1949年より第一外務次官を9年、ソ連外相を20年勤めた大ベテラン外交官ですが、しかし共産党内での順位は、1956年以降万年ヒラの中央委員ではっきり言って低く、ひたすら指示される立場にあったグロムイコ、実にベリヤ以来のことになりますが、秘密警察の長として政治局員となった国家保安委員会議長アンドロポフです。

 要するに、圧倒的な軍事力を背景に、西側にデタントと共存共栄を強いるのが、完全に権力を掌握したブレジネフのやり方となりますから、まずは軍事力の増 強と軍の協力がないと話になりません。そこで、第二次大戦で、第4ウクライナ方面軍で、当時第18軍政治部長、階級は大佐(終戦時には陸軍少将)だったブ レジネフともに戦った、当時第18軍軍指令だった戦友のグレチコを政治局員の昇格させました。さらに軍事力を背景とした外交交渉で西側をデタントに引き込 むわけですから、優れた外交能力を持つ人物が必要、ということでグロムイコが政治局入りします。最後に、デタントで西側との共存が進めばどうやっても西に 行くソ連人も増え、東に来る資本主義諸国民も増えます。すると、西側へ亡命したがるソ連市民がでたり、ブルジョア化するソ連市民などが心配になってきますから、強力な思想統制が必要である。という理由で秘密警察の長がソ連政界の奥の院入りを果たしたのです。

 これ以後、ソ連の軍事力を誇示し、デタント外交を優位にすべくソ連軍は各地で行動を開始します。1972年、1975年の演習「オケアン」では太平洋、 大西洋、白海、バレンツ海などで同時演習を行い(日本近海でも行う予定でしたが日本の抗議で中止)、90秒以内に目標海面に100発のミサイルを集中させるという離れ業を見せます。さらには核弾頭数ではアメリカを抜き去り、この後述べますが、反帝闘争の大きな柱である民族解放勢力に対する支援もかねて、世界各地の内戦に介入してソ連の脅威を見せ付けました。

 ブレジネフも自ら軍部を支配すべく、19755月、対独戦勝30周年記念学術会議の際に、グレチコ国防相の開会の挨拶でブレジネフを「大祖国戦争(第 二次世界大戦のソ連的な呼称)への積極的参加者、上級大将」と呼ぶことで実はブレジネフは上級大将(元帥のことです)であることを公表し、19765 7日付けでソ連邦元帥(平時におけるソ連軍最高の階級)に昇進します。さきのグレチコの件が党人国防相の登場なら、こんどは書記長元帥の登場です。

 いまだに、ソ連(ロシア)は何やってるかよくわからなくて怖い、というイメージを少なからぬ数の方がお持ちですが、そのイメージはおそらくこのときに形成されたものでしょう。しかし、この方法はうまくいかんですよ、やっぱり。つまり、デタントで軍事支出に一息つかそうにも、デタントを支える手段が軍事力 の誇示ですから、結局軍事費がかかるという明らかな矛盾にぶつかり、あらゆる支出でもっともお金を食うのが軍事費という結末になるんですよ。こうなった場合は覇権国家政策を放棄する、つまりプライドを捨て去る以外には、本当に打つ手がなかったのでしょうが、そうするにはまだまだソ連の力は強力でした…。

 さらに、米ソ首脳会談が制度化すると、最重要ではありますが、本来共産党の役員にすぎない、国会議員ですらない書記長が、首相や国家元首の最高会議幹部会議長を差し置いて事実上のソ連の最高権力者という事態が放置できなくなり、19775月、ソ連憲法の改正法案をブレジネフは提出します。1977524日には 共産党中央委員会総会でスースロフの司会の下、ポドゴールヌィを政治局員から解任、616日には最高会議幹部会議長から解任し、ブレジネフ自ら最高会議 幹部会議長に就任します。こうしてブレジネフは名実ともに党と国家の最高権力者となりおおせました。

 1964年の、フルシチョフを解任した共産党中央委員会総会は、「今後同一の人物が中央委員会第一書記とソ連邦閣僚会議議長との職務を兼任することは不 適切である」と認定し、それに基づいたトロイカ政権だったはずなのですが、あれは何だったのでしょうか。

 197710月、ソ連邦を全人民国家と規定した憲法を、全人民討議を経て採択、ソ連史で三番目の憲法が誕生しました。この憲法の第六条で、共産党が 「社会を指導し、方向づける力、政治体制、国家、社会組織の中核である」として党の指導的役割を規定し、党機関が国家を支配してい、ることを憲法で正当化しました。名実ともに、ソ連邦の支配体制がこれで完成したということになります。

 しかし、コスイギン改革の一時期を除いて、工業成長率が伸びず、1979年には工業成長率がソ連史上最低の3.4%を記録、結局フルシチョフが22回党大会で数値を上げて掲げた生産目標は、1980年における工業・農業の主要生産品目のすべてで未達成に終わりました。こういう状態では、党綱領改定を持ち出さざるを得ません。

 1981年の第26回党大会で、ブレジネフは60年党綱領が全体として、社会発展の法則性を正しく反映しているといいつつも、採択後20年も経たいまや変更が必要であると発言しました。結局、20年間に蓄積された社会主義・共産主義建設の経験から、共産主義へ前進の途上には「発達した社会主義」なる段階があることが示唆されたとし、それに対応した党綱領の採択が必要であり、党大会綱領定の新稿の起草を党中央委員会に委任する、という決定を採択したのです。革命後約70年、だいぶ勇ましさも鳴りを潜めてまいりました。


〜 4. ブレジネフ外交・東アジア編ーベトナム戦争 〜

 アメリカですが、1962年のキューバのカストロ親ソ共産党政権を転覆させることに失敗し、失地回復の機会をうかがっておりましたが、1964年のトンキン湾事件以降、本格的にベトナム戦争に介入を始めました。

 これまでのベトナム情勢を振り返りますと、ベトナム皇帝バオダイが退位し、1945年ベトナム民主共和国が設立され、ホーチミンが初代大統領に就任します。19463月、ベトナムを植民地支配していたフランスも暫定協定でこの新国家を承認しました。






ホー・チ・ミン(本名 グエン・タト・タイン)
胡 志明(阮 必成)
1890-1969

ベトナム独立運動の指導者



 ところがフランスはコーチシナをベトナムから引き離そうと画策、11月にはハイフォンでの小紛争をきっかけにこの地を海空からの攻撃で占領、さらには12月フランス軍司令官がベトナム軍にたいしハノイにいる全部隊の武装解除を要求、こんな条件をのめるはずのないベトナム政府と全面的な武力衝突に発展します。足掛け9年にわたるインドシナ戦争がはじまったのでした。

 1948年ごろまではフランス軍が戦闘で優位にたち、北ベトナムの主要都市を占拠します。ところが、ホー・チ・ミン率いるベトナム軍はゲリラ作戦を展開、フランス軍はこらえきれず南にバオダイ政権を誕生させ、フランス連合内での独立国とし、フランス人と南ベトナム人がホー・チ・ミンらと戦うことになり ます。

 しかし、中ソ友好同盟相互援助条約が締結された19502月、スターリンはホー・チ・ミンをモスクワに呼びよせ、解散していたインドネシア共産党を、ベトナム労働者党という呼称で復活させるよう命じます。さらに中国共産党は大日本帝国の解体で八路軍に編入された旧日本兵を兵力として送るなど、ベトナムにはひそかに共産党陣営の援助が始まっていました。

 こうして徐々に力を増したヴェトコン陣営は、1950年秋、総反撃を開始し、中国国境付近のラオソニ、ラオカイなどの都市を奪取、年内にはベトナム北部からフランス軍を追い出すことに成功します。これに危機感を感じたフランス連合軍司令官ナバールは19538月、二年以内にヴェトコンを撃滅することを 目的とした「ナバール計画」を実行します。フランス軍最精鋭部隊である外人部隊を投入したこの策戦で、195311月、ディエンビエンフーを急襲、若干の成功を収めますが、1954年、中国共産党の援助により装備が近代化されたヴェトコンは四個師団を終結、ディエンビエンフーを包囲、勝利を収めます。

 これにより戦いの趨勢が決まり、フランス連合軍は19547月にはハノイまで後退しました。この辺でインドシナ停戦の動きが本格化し、19544月 にはジュネーヴで米・英・仏・ソの四巨頭会談が行なわれ、17度線を境にベトナムが南北に分断され、停戦することが決められたのです。ただ、この決定には 中ソ対立が原因の中国の親米路線が影響を与えており、この時点でベトナムの3/4を支配していた北ベトナム側に不満を残す形となり、北ベトナムはソ連に接近します。

 ところが、ケネディ暗殺後アメリカ大統領となったジョンソンはベトナム戦争への本格的な介入を決意、1964年、北ベトナムの哨戒機がアメリカの駆逐艦 に魚雷を発射したとされるトンキン湾事件を契機に議会からの承認を得ると、1965年にハノイなどのベトナム主要都市への無差別爆撃、北爆を開始し、ベト ナム本土にアメリカ海兵隊が上陸、ベトナム戦争は本格化します。さらにアメリカは韓国・オーストラリア・タイなど、同盟国・関係諸国から兵を募り、ベトナムに投入しました。これに対し、ソ連は19679月、北ベトナム軍事経済援助協定を結びました。こうしてベトナム戦争は密かな米ソ代理戦争の状況を呈し てきました。しかし、アメリカ国内には反戦運動が巻き起こり、1968年ジョンソン大統領は大統領選への不出馬を表明します。

 しかし、中国からソ連に鞍替えしたベトナムに対する中国の怒りと、ソ連に対する主導権争いの激化は、中国のソ連に対する軍事行動を生みます。1860年の北京条約で国境線が国際河川で求められる中州でなく、中国側によっていたことからソ連はダマンスキー島をソ連領と主張、中国は自領と主張 していたのですが、1969年、ウスリー川の中州であるダマンスキー島(珍宝島)で中ソ両国による武力衝突が起こったのです。「プロレタリアートは国境を越えて団結する」というマルクスの言葉をもろに信じていた各位にとってこれは大変な衝撃となりました。この騒ぎでソ連はベトナムにそれほど力を注ぐことはできなくなり、しかも1969 年にはホー・チ・ミンが亡くなり、北ベトナムはベトナム戦争をほぼ独力で行なうこととなったのです。

 1969年の3月はじめ、中国側が30人の軍人を上陸させ、ソ連国境警備隊と衝突、ソ連側に31人の死者が出ます。15日も同じ 事件が起こり、林彪は中国共産党大会でダマンスキー島は中国領であると主張、けっきょく両国がそれぞれ100万人規模の軍を国境に派遣することとなり、ソ連にとっては第二次大戦後初の大規模な軍事行動となります。さらにソ連は1970年には、中央アジア約2万キロにわたる中ソ国境沿いの軍隊に戦闘準備体制 強化の指令を発しました。

 こうして中ソ対立はとうとう武力対峙にまで発展してしまったわけですが、さすがに中国はソ連と一国のみで対立するのはまずいということで、「敵の敵は味方」というわけで、なんとアメリカと接近を始めます。ときあたかも、ウォーターゲート事件などもありますが、それでも歴代アメリカ大統領中屈指の名大統領だと僕が考えるニクソン大統領の時代でした。1969年共和党のニクソンは大統領に当選し、ベトナムからのアメリカ軍の陸上兵力の撤退を始め、11月には米ソ戦略兵器削減交渉予備会談に入ります。ちなみに19699月、南北ベトナムの統一を見ることなく、ホー・チ・ミンは心臓発作で亡くなりました。






リチャード・ミルハウス・ニクソン
Richard Milhaus Nixon
1913-1994


ウォーターゲート事件で辞任するも、
デタント、ベトナム撤兵、金ドル交換停止など、
猫の首に進んで鈴をつけた名大統領



 さて、ニクソンは、ベトナム隣国カンボジアのベトナム援助物資輸送路「ホー・チ・ミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」(第二次世界大戦中の援蒋ルー トのようなものです、因果は巡るものなのでしょう。)を叩き、ベトナムへの共産圏からの援助物資を断ち切ろうとします。共産党よりのカンボジアのシアヌーク国王の外遊中、アメリカが援助するロン・ノルらにクーデターを起こさせ、親米政権をカンボジアに樹立させます。そして、ロン・ノル政権の黙認の下、アメ リカ軍と南ベトナム軍がカンボジアに侵入、「ホー・チ・ミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」寸断を企てました。アメリカ軍は北ベトナム軍の拠点を叩くことに成功しますが、撤収が早すぎてルートは息を吹き返し、さらにロン・ノル政権に対抗して、中国共産党の支援を得たポル・ポト率いるクメール・ルージュ (赤いクメール、カンボジア共産党)が旗揚げし、追放されたシアヌーク国王とともに政府軍に攻撃を開始、カンボジア全土に凄まじい虐殺をおこしたカンボジ ア内戦がはじまります。

 動乱がインドネシア半島全域に拡大しそうな雰囲気をみて、これはいけないと思ったのでしょうか、ニクソンは共産主義陣営との宥和を目指し、1971715日、全米向けテレビ放送での重要演説で、「中華人民共和国と75千万人の人々の参加なしでは安定して永続する世界平和はありえない」 と発言、1972年訪中し、「上海コミュニケ」を発表します。これにアメリカの同盟国日本も追従、時の総理大臣田中角栄も訪中を果たし、日中国交正常化を 実現させ、日華平和条約の終了を宣言します。

 この米中接近に仰天したのがソ連指導部です。このまま中国とアメリカの友好関係が続いていけば、最悪二面挟撃作戦を食らってしまいます。そこで急いでブレジネフはアメリカとの関係改善をはかり、まずは西ヨーロッパと和解し、アメリカとの関係の改善を図り、石油ショックも相まって、アメリカからの穀物輸入に成功(以後ソ連は飼料・作物の25%をアメリカなどから輸入することとなります)、資源外交で欧米諸国の先端技術輸入が可能となり、ココム(対共産圏輸出統制委員会)規制の骨抜きに成功します。

 また、ニクソンは金ドル交換停止を宣言します。戦後は200億ドルもの金を保有していたアメリカですが、西ドイツを始めとするヨーロッパ経済の復興、安全保障条約の核の傘の下、軍事開発・維持費に気 を取られることなく資金・人材を経済復興の一点のみに集中でき、アジア初の製品製造工場と化した日本の台頭、軍事支出の増大、米ドルのみが金との兌換を保障しているにもかかわらず、そもそもアメリカの国際収支の赤字によるドルの世界散布こそが、米ドルのキーカレンシーたる地位を保証しているというブレトン ウッズ体制の構造的欠陥、これらがアメリカ経済を相当痛めつけていたのです。ニクソンの「新経済政策」による金ドルの交換停止はまさにアメリカ経済の下降の象徴でして、冷戦で旧ソ連は崩壊しましたが、アメリカもタダですんだわけではなかったのです。

 さて、ニクソンは1972年さらに北爆を再開、北ベトナムに2万トンもの爆弾を投下、対日戦並の爆撃に北ベトナムは崩壊寸前に追い込まれ、パリ会議への出席を余儀なくされました。ただし、この軍民を問わない無差別攻撃はアメリカ国内に猛烈な反戦運動が巻き起こり、これ以後北爆は中止されました。

 そしてパリ会議が行なわれ、アメリカ、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム共和国臨時革命政府の四者間で和平が結ばれます。これでアメリカ軍の撤退が本 決まりとなり、アメリカが引っ込み、ベトナム戦争はいよいよソ連が肩入れする北ベトナム正規軍と南ベトナム正規軍のぶつかり合いとなったのです。さらに 1974年、ソ連の支援する北ベトナム軍は中国共産党の支援するポル=ポトが支配するカンボジアに侵攻、プノンペンにせまり中ソ代理戦争まで起こりかねない様相を見せま す。

 さて、1975年、完全にアメリカの介入が起こらないと判断した北ベトナムはパリ協定の条項を破り、南ベトナムにたいし「ホー・チ・ミン作戦」を発動、全面攻勢に出ます。南ベトナムはアメリカに支援を要請しますが、アメリカは拒否、1975430日、サイゴンは陥落し、南ベトナムは降伏しました。 19767月、南北ベトナムの統一が宣言され、ベトナム社会主義共和国の成立が宣言されました。ソ連ですが、197811月には友好協力条約を結び、ソ連海軍は早速ベトナムのカムラン湾、ハイフォン、ダナンに展開し、帝政ロシア時代からのロシアの宿願、南下政策がめでたく達成されたことになりました。

 ベトナムにアメリカをも敗退させた強力な親ソ政権が誕生し、東南アジアに地殻変動が起こります。内戦の続いていたベトナムの隣国ラオスでは左派のパテート・ラーオーが権力を握り、1975年ラオス人民共和国が成立し、共産主義政権が誕生します。さらにベトナム軍はソ連の承認の下、カンボジアのヘン・サムリンを支援する形で1978年にもカンボジアに侵攻、さすがにこれには中国のケ小平が「膺懲」声明を発表、クメール・ルージュを護るべく 1979年に中国軍がベトナムに侵攻します。しかし、ベトナム軍に手痛い反撃を食らい、さらにソ連は北ベトナム軍事経済援助協定遵守を表明、モンゴルに戦車部隊を派遣し、中国国境に動員させましたので、中国は手を引き、やっとこの地域は安定化したのです。


 〜 5. ブレジネフ外政・東欧編ー「プラハの春」 〜

 リーベルマンが『コムソモールスカヤ・プラヴダ』で発表した利潤概念を導入する論文に刺激され、チェコスロヴァキア、ポーランド、ブルガリアでも経済改 革を進める動きがあわられました。60年代の共産圏全体の低迷は各国の政権に対する不満となってあらわれており、ことに、チェコスロヴァキアのノヴォトニー政権によって自治権を制限され、経済的後進性まで背負わされたスロヴァキア地方では、現体制への不満すなわち共産体制への不満が高まっておりました。

 1961年のフルシチョフによる第二次スターリン批判を受け、1963年チェコスロヴァキアでも名誉回復の動きがなされます。ところが、朝野の不満はそんなものでは収まらず、19676月の作家同盟大会では作家のクンデラが

 ー 「文化の発展をさえぎったものは、約四半世紀に及ぶナチスの占領とスターリン主義であり、世界の文化から隔離し、輝かしき伝統を低め、それを野生のプロパ ガンディズムにおとしてしまったことは、チェコスロヴァキア民族を再び決定的にヨーロッパの文化的僻地に追いやった悲劇であった」ー

 という爆弾発言をします。共産圏の盟主ソ連への批判につながるこの発言にたいしノヴォトニーは主要な党員作家を党から除名し、作家同盟機関紙の編集委員会を解散、それを情報相の管轄に移しますが、作家達は完成機関紙への執筆を拒否し、読者も不買運動を起こし、返品は7割に達したとのことです。19671031日、プラハ学生寮の学生達が電気と暖房が切れたままであることに抗議しろうそくをつけたデモを行ないましたが、警官隊が警防をふるってそれを阻止、多数の負傷者と逮捕者が出、国会で警察を非難する決議が通ります。

 1220日、ノヴォトニーに対する批判が相次ぎ、196815日、とうとうノヴォトニーは党第一書記を辞任し、スロヴァキアの党第一書記のアレク サンデル・ドゥプチェクが後任に推薦されました。ドゥプチェクは3月には内相・検事総長・国防相などの多くの高官を更迭し、3月中旬には検閲を廃止、4月 には共産党中央委員会で「行動綱領」を提出し、「社会的創意、意見の率直な交換、社会制度および政治制度全般の民主化」が必要だと主張しました。






アレクサンデル・ドプチェク
Alexander Dub
?ek
1921
1992

プラハの春当時のチェコスロヴァキア共産党第一書記



 このようにして「プラハの春」が開花していったわけですが、ソ連首脳部や東ドイツ指導層は民主化措置には一貫して反対で、19683月には共産圏の指 導者が東ドイツのドレスデンにあつまり、共同コミュニケを発表、「社会主義共同対処国に対する帝国主義者の攻撃の意図と破壊活動について、警戒を強化することが、ことに必要である」と警告を発しました。

 ところが、4月にチェコスロヴァキアの新聞は、例の1948年の外相マサリクの投身自殺の死因に嫌疑を傾け、ソ連秘密警察の指示を示唆します。これに対し、5月にはソ連軍とポーランド軍によるチェコスロヴァキア国境付近での軍事演習が行なわれます。しかし、627日、チェコスロヴァキアでは各界人の 70名の署名入りの「二千語宣言」が発表され、改革をさらに急進的に進めるよう提唱されます。

 こうしてチェコスロヴァキア情勢はどんどん抜き差しならないものになっていったわけですが、コスイギン、スースロフ、アンドロポフらはこの件に関して慎重でした。が、シェレスト、対西側強硬派のシェレーピンらが介入を求めます。ソ連政治局員らの間でこの件に関し激論が戦わされ、結局5:6の僅差でチェコスロヴァキア情勢に対するソ連の介入が決定されたということです。

 結局820日午前11時頃、ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアのワルシャワ条約機構加盟国5カ国は、ソ連軍を主体とする15万の兵力をチェコスロヴァキアに送り、党本部、政府官庁、放送局、新聞社、鉄道駅などの要所を占領、ドプチェク第一書記、チェルニーク首相、スムルコフスキー国 会議長、クリーゲル国民戦線議長などのチェコスロヴァキアの改革派の要人を逮捕、ウクライナのКГБ監獄に連行します。






1968
年、ワルシャワ条約機構軍
侵入直後のプラハ






プラハ市内に姿を現した戦車



 チェコスロヴァキア要人中、逮捕をまぬかれた、第二次世界大戦の英雄将軍だったスヴォボダ大統領は、国家指導者解放をソ連に要求しますが、ソ連指導部は 黙殺、823日、スヴォボダ大統領は政府・党の幹部数人ともになんと自らモスクワに赴き、拉致された国家指導者との交渉をソ連に要求します。ソ連はこの要求を受け入れますが、ドプチェクらは「モスクワ議定書」に署名、「正常化の諸措置」を取れば外国軍隊は撤退する、との共同コミュニケが発表され、チェコ指導部は帰国を許されました。結局19694月、保守派のスロヴァキアのフサークが党第一書記となり、「プラハの春」以前の党・政治指導者の復職、検閲の復活、各種自立的団体の解散、反ソ宣伝の禁止などが実行に移され、改革は立ち消えとなります。

 あたりまえですが、この事件は共産圏内外に大きな波紋を呼びます。すでにフルシチョフ時代、ソ連のコントロール下からほぼ脱しようとしていたルーマニア のチャウシェスクは、この介入に反対し、チェコスロヴァキア侵攻に参加しませんでした(もっともルーマニア国内で彼は恐ろしく抑圧的な政治を展開します。)。さらに、ヨーロッパの共産党では事件後イタリア共産党を中心として「ユーロ・コミュニズム」が台頭、ソ連圏の共産主義の抑圧的態度を非難し、ヨー ロッパの共産主義は、ソ連圏の共産主義とは独自の道を歩みます。モスクワではスースロフらが中心となり、「ブレジネフ・ドクトリン」が打ち出され、東方でのソ連の介入を正当化する制限主権論が発表されました。

 さらにはポーランドでも波紋が起こります。ポズナン暴動に端を発し、ソ連の圧力を排して誕生したゴウムカ政権ですが、低迷する経済を回復できなかったの が最大原因だと思うのですが、ゴウムカ政権のもとで不満が噴き出します。スターリン主義には反対したものの、頑固なスターリン主義者だった彼は1957年 には自由派の拠点だった『ポ・プロストゥ』を廃刊処分とします。さらに1963年には自由はのザンブロフスキを党政治局から追放、1964年には学者・作家ら34人が自由化を要求する声明を当局に出すなど、事態は険悪となっていきました。

 これに追い討ちをかけたのが46品目にわたる生活必需品の値上げです。第三次5カ年計画が行き詰まり、この計画に対する追加資金を捻出しようと基礎食料 品を値上げし(牛肉19.1%、パン24%、チーズ25%ということですから、かなりきつい値上げです。)、農民に生産意欲を持たせ、合わせて農業補助金 を削ろうとの狙いをもったこの決定は都市民に対しては完全に裏目に出、バルト海沿岸のグダンスク造船所労働者のストが発生しました。スト参加者の数の多さ に警察は発砲、それをきっかけにストは暴動に転化し、群集が党本部や駅を襲い、ポーランド当局は軍を出動させてストを針圧します。この騒ぎでゴウムカは退陣し、ギエレクが第一書記となります。

 ギエレクは、農業物買い上げ価格の引き上げ、土地売買・相続の自由化、賃金と年金の引き上げ、消費物資の生産と輸入の増加、作家・知識人への譲歩、カト リック教会との改善を掲げます。正直、この時期のポーランドの情勢でこんな手品師みたいなことできるのでしょうか。で、足りない出費は「第二のポーランドを作る」つまりは所得倍増計画を掲げ、それによる税収増加に期待をかけます。

 さて、所得倍増をどうやって成し遂げるかですが、それは欧米からの機械・技術の輸入と資本導入で、これにより、ポーランド製品の質的量的な工場を図ったのです。しかし、そのような効果が現れる前に1973年石油ショックが発生し、西欧諸国のインフレとソ連の原油価格の引き上げにより国際収支の赤字と対外 債務は膨れ上がり、にもかかわらず労働者の賃上げと農産物価格の買い上げは続きましたから、巨額の財政赤字(1979年末には西側に対する累積債務が 210億ドルに達したといいます。)がポーランドを襲います。

 やむを得ずギエレクは成長目標を大幅に切り下げ、イデオロギー統制に走るべく、憲法改正を提出、国名を「ポーランド人民共和国」から「ポーランド社会主義共和国」に変更する、「党の指導的役割」を明記する(共産主義国においては、事実上共産党が国家を支配する仕組みとなっておりますが、これを憲法で明記 しようというわけです)、ソ連との「揺らぐことのない兄弟的連携」を強調する、などが新憲法に盛り込まれることになりました。

 しかしこれは知識人グループ及び市民グループに非常に受けが悪く、ギエレクは譲歩し、憲法改正案は骨抜きになった形で19762月国会を通過します。結局打つ手がないまま経済の破局が訪れ、1976624日、ポーランド政府はやむなく肉製品平均69%、バター50%、家禽30%、砂糖100%とい う大幅な値上げに踏み切りました。国家財政の破綻を回避するためにはこれしかなかったのでしょうが、普段買っているものの値段がここまで急に上がったら、そりゃあ暴動にもなりますよ。

 早くも翌日の25日、ワルシャワ西方のウルススのトラクター工場でストが発生、ワルシャワ南方のラドムでストに入った労働者や市民が暴徒化し、党地方本部・幹部の別荘・商店を襲って放火し、騒乱は他地方に広がりました。ヤロシェヴィチ首相は即座に値上げの撤回を表明しましたが、治安機関をフル回転させて 暴動を鎮圧、多数の逮捕者を出して略式裁判で310年の実刑判決を下します。但しこれは西側の抗議を受け、結局最高裁は彼らを執行猶予として釈放しました。

 スターリン時代にアルバニア・ルーマニアと断交し、フルシチョフ時代にルーマニアに背かれ、ブレジネフ時代には、戒厳令以外のポーランド情勢のコントロールがソ連にもポーランド自身にも不可能となるなど、東欧もたまねぎの皮を一枚一枚むいでいくように、じわじわとソ連のコントロールから離れて行ったのです。その最終的な結果が1989年の相次ぐ共産党崩壊の東欧革命でして、何事もそうなのですが、あれはいきなり起こったことではなく、やはり前兆はずい ぶんと前から現れていたのです。



     ーーーこのページの主要参考文献ーーー


   ・『アジア冷戦史』
    下斗米信夫 著
    中央公論社

   ・『パレスチナ紛争史』
    横田勇人 著
     集英社新書

   ・『ブレジネフ時代の終わり』
    大蔵雄之助 著
     TBSブリタニカ


   ・『ペルシャ湾』
    横山三四郎 著
    新潮選書

   ・『新書アフリカ史』 
     宮本正興+松田泰二=編
     講談社現代新書

   ・『ソ連共産党書記長』
    木村明生 著
     講談社現代新書

   ・『ロシア同時代史権力のドラマ』
    木村明生 著
    朝日選書

   ・『世界の歴史16
    松本重治 著
     中公文庫

   ・『ロシア史 3』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

   ・『ゴルバチョフの時代』
    下斗米伸夫 著
    岩波新書

   ・『物語 アメリカの歴史』
    猿谷 要 著
    中央公論社

   ・『激動の東欧史』
    木戸蓊著
    中央公論社

   ・『アフガニスタン 戦乱の現代史』
    渡辺光一 著
    岩波新書

   ・『月を目指した二人の科学者』 
    的川泰宣 著
     中公新書

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー