ロマノフ王朝(15)

〜〜 ロシア革命とロマノフ朝の最後 〜〜



アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ケレンスキー
/ Керенский, Александр Фёдорович(1881-1970)

臨時政府司法相
第一次連立政府陸海相
第二次、三次連立政府首相、陸海相

帝政から共産主義への過渡期の資本家政府の首班を務める

注意!音が出ます
(1919年、レーニンの赤軍に対する演説)

 


Российская

 
 

История


 

 スマン・トルコの弱体化は、旧オスマントルコ領内、とくに民族のモザイクバルカン半島での各民族の独立を目指した蜂起を促し、この騒乱は当然バルカン半島情勢の不安定を生みます。誕生したばかりの小民族国家群は、自国の利益を巡ってさらに騒乱を起こし、そこで、小民族国家群のバックについているヨーロッパの大国の、地域安定を名目とした介入がさらに巨大な戦火を生みました。自分たちの間の最終的な利害調整に失敗した列強諸国は、自らまいた種で、世界を巻き込んだ大戦争の業火に、自らも巻き込まれていくことになります。

 産業革命の進展は軽やかな兵器生産・輸送を可能とし、その国力が枯渇するまでの戦争続行を可能とし、世界の主要国の殆どが参加したため、止めるもののいなくなったこの戦争は、相手国の完全なる戦争遂行能力喪失まで進みました。この戦争の終わった後に現れるのは、敗戦国はもとより、戦勝国も疲れきった墓場の平和です。

 この戦いは、終わってみれば、ヨーロッパに残されたの三つの帝国、事実上の専制君主制国家、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ドイツ帝国(4つの王国、6つの大公国、5つの公国など計22の君主国と3つの自由都市と1つの帝国領からなる連合国を、プロイセン王国が押さえるというものでした)すべてが崩壊し、ヨーロッパに残されたアンシャン・レジーム全てを消し去ってしまうという、劇的な変化をもたらしたのでした。

 アジアにおいても、極東、特に中国におけるイギリス、ドイツ、フランスなどの権益は以前に比べ格段に後退し、かわって山東半島をてこに、これまでとは比較にならないほど強力な権益を中国北部に設定し、国連委任統治領の名目で旧ドイツ領の太平洋の島々を手に入れ、アジアにその手を広げ、太平洋国家として勃興しようとする大日本帝国の台頭、あるいは戦争景気で工業化・資本輸出国としての脱皮を遂げ、同じく太平洋国家としての発展を遂げつつあったヨーロッパの田舎アメリカの台頭と、世界は新たな局面を迎えつつあったのです。



   〜 1. バルカン戦争ー第一次大戦の伏線 〜

 1908年内乱が起こって青年トルコ党が政権を握り、物情騒然と成りかけていたトルコの苦境を見越し、19126月、トルコ領アルバニアで反乱が起こります。昔日の面影はもはやどこにもなく、おまけに19119月から、イタリアとリビアのトリポリを巡って戦争中で内政にかかずらっている余裕がなく、事態を収拾する力を失ったオスマン・トルコ帝国は状況を追認するしかなく、アルバニアの自治権を認めました。

 と、この状況を見て、バルカン半島の国々、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャの四カ国の間で個別に同盟が結ばれ、この四カ国が一致してオスマン・トルコに宣戦布告したのです。第一次バルカン戦争の勃発でした。セルビアはマケドニアの大半を占領、モンテネグロ、ギリシャ、セルビア、はアルバニアを占領してしまいました。オスマン・トルコは慌ててイタリアとローザンヌの講和を結んでイタリアのトリポリ地方の領有を認め、四カ国に対し応戦しますが、この四カ国のバックについているオーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国が動員令を発し、恫喝をかけ、イギリス外相エドワード・グレイの斡旋で両国は矛を収め、19135月のロンドン条約でオスマン・トルコが四カ国にそれぞれ領土を割譲することで話がつきました。

 ところが、講和からたったの一ヶ月後、マケドニアの分割をめぐってセルビアとギリシャ・ブルガリアが対立し、またも戦争が始まりました。これが第二次バルカン戦争です。この戦いではセルビアがギリシャ、モンテネグロを味方につけてブルガリアを攻撃し、さらにはルーマニアが裏切りをかましてセルビア陣営に加わったため、ブルガリアが屈服し、19138月のブカレストの和議で領土を奪われ、セルビア・ギリシャは領土を拡大しました。

 この結果に極めて不満をもったブルガリアはドイツ・オーストリア・トルコに急接近し、セルビアは南スラヴ人の解放が旗印でしたから、南スラヴを支配下におくオーストリア・トルコとは反目し、逆にスラヴの盟主たるロシア帝国とは極めて緊密な関係を持つことになります。こうしてバルカンの小国のバックにヨーロッパの大国がつき、小国間の争いが、世界情勢を揺るがしかねない力を持つ大国どうしの激突に直接つながるという極めて危険な情勢が出来上がったのです。

 さらにロシアでは、先ほど述べたごとく、親英親独派、つまりはよく言えば国際協調、悪く言えば八方美人派、穏健派のココツォフが、ラスプーチンと『市民』紙の主宰メシチェルスキーの攻撃で首相を退陣し、反独派で強硬保守のゴレムイキンが首相となりました。




     この章に登場するロマノフ一族の系譜


 ―アレクサンドル3
      |
      ├――ニコライ2
           |    |
           |    ├―――オリガ
           |    |     |
           |    |     ├―タチヤーナ
           |    |    |
           |    |    ├―マリア
           |    |    |
           |    |    ├―アナスタシア
           |    |    |
           |    |    └―アレクセイ
           |    |
           | アレクサンドラ
           |
           |
           ├―アレクサンドル
           |
           ├―ゲオルギー
           |
           ├―ミハイル
           |
           └―娘二人


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者






    〜 2. 第一次世界大戦ー世界戦争 〜

 1908年、トルコで内乱が起こった時期に、オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン・トルコからボスニア州とヘルツェゴヴィナ州を奪い取っていました。この二州はセルビアと隣接しており、セルビアにとっても垂涎の的でありました。ところが、よりによってこのボスニアで、オーストリア=ハンガリー二重帝国が大軍事演習を開いたのです。

 1914615日、ボスニアの州都サラエボで、大演習を見学にきたオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナンドとその妻が、地元の民族主義団体に所属する青年プリンチッペに射殺されてしまいました。皇位継承者を殺害されてオーストリア政府は黙っているわけには行かず、この事件の責任は、セルビア政府にあると断言(しかしボスニア州は当時オーストリア領ですから、オーストリア自身の警備体制の不備にも相当の問題があるとは思うのですが)、723日、セルビア国内での一切のあらゆる反オーストリア運動の禁止、反オーストリア団体の解散、オーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理をもとめ、48時間以内の期限付き回答を要求しました。

 そうとう内政干渉的なヒステリックな要求ですが、最後のオーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理の条項に到ってはもはやセルビア国家の主権の侵害です。ロシア外相サゾーノフは、セルビアの関与を信じず、農業庁長官クリヴォシェインらとともにセルビア擁護の発表を出し、オーストリアはドイツの同盟関係をバックに一歩も譲らず、イギリスのグレイ外相がオーストリアとロシアの直接交渉を提案したり、イギリス、フランス、ロシア、ドイツの四大国大使会議開催を提案したりしますが、不調に終わります。

 25日になってセルビアは、オーストリア政府代表の立会いによる皇太子射殺犯の審理意外をのぞく全ての条件を飲むと回答しましたが、オーストリアはこれに満足せず、重ねて要求全部の受理を承認を求めました。セルビアがこれを受け入れないことを知ったオーストリアは、728日、セルビアに宣戦布告します。

 ロシアはこれに対しその日部分動員令を下します。翌日、ドイツはロシアが部分動員令を解除しなければドイツも動員令を出し、戦争準備を始めると通告してきました。外相サゾーノフと参謀総長ヤヌシケヴィチは戦争を決意し、部分動員令を総動員令に変更するようニコライ2世に上奏しました。さすがに強硬派のゴレムイキンも、首相という責任ある立場についた以上、絶対に無茶はできませんから、ニコライ2世に対し、このまま部分動員令にとどめるよう上奏します。皇帝は一人で決断し、総動員令を下します。

 こうして30日、ロシアに総動員令が下り、続いてドイツも総動員令を下します。31日にはニコライ2世臨席のもと、会戦の方針が決定され、81日にはドイツがロシアに宣戦を布告しました。これをうけて83日には露仏同盟からフランスがドイツに宣戦布告します。さらにドイツが中立国ベルギーに侵攻すると、英露協商のからみで84日にはイギリスがドイツに宣戦布告しました。86日には、オーストリアがロシアに宣戦布告します。戦火は極東に飛び火し、イギリスは開戦三日後、外相加藤高明を通じて日本政府に東シナ海におけるドイツの武装巡洋艦の探索と撃破を依頼してきました。

 そこで日本政府はこれを受け、それどころか積極参戦までイギリスに申し込みます。イギリスはこの日本の積極的な態度に驚き、日本の軍事行動をイギリス商船の保護のみに限定することを申し入れましたが、日本はこれを無視してドイツに対し、ドイツ艦隊の日本海およびシナ海からの即時退去もしくは武装解除、ドイツ租借地の膠州湾全部の中国返還のため、91日までにこの地域を日本に引き渡すという最後通牒を発します。

 イギリスは、日本の行動は、西太平洋での日本船舶の航路の保護するのに必要な場合を除いてシナ海やその西方アジアに出ず、ドイツ占領地域などの外国領土に及ばないものと了承する、という声明を一方的に発表し、アメリカも膠州湾の中国返還及び中国の領土保全を日本に申し入れます。が、日本はドイツから先ほどの最後通牒の満足な回答が得られなかったことを理由に823日、ドイツに宣戦布告しました。こうして戦争は世界に広がっていったのです。

 ロシアでは挙国一致体制が敷かれ、旧暦もしくはユリウス暦(Старый стиль, Юлиянский календарь)7月20日、グレゴリウス暦では82日、冬宮のゲオルギウス広間でツァーリ自らによって開戦の詔勅が読み上げられました。


 いまや不公平に傷つけられたる我等が血縁の国を擁護するのみでなく、ロシアの名誉、尊厳、領土保全と大国の間でのその地位を守ることが急務である。チンは、朕が忠良なる臣民がロシアの地の守りのために結束して献身的に立ち上がるとの不動の確信を抱いている。恐るべき試練の時に国内の不和は忘れられ、ツァーリと国民の一体化はさらに緊密に強化され、一人の人間のごとく立ち上がったロシアは、敵の野蛮な攻撃を撃退するであろう。我等の事業の正義を信じ、全能の神慮を心静かにたたえつつ、朕は聖なるルーシと勇敢なるわが将兵に神の加護を祈るものである


 当時外交官補としてロシア帝国の日本大使館に在勤していた芦田均は現地の雰囲気を以下のように書いております。


 
「…広場にはすでにいっぱいの人が押し寄せ、聖像を高く捧げ、ツアの像を担い、あるいは国旗を押し立て、学生・労働者・インテリ・商人あらゆる階級の人々が、一斉にロシア国家ボージェ・ツァリャー・フラニーを歌う。そして、合間合間に、ウラーと喚声をあげている。人々の顔は、熱に燃え、涙にぬれて輝いていた。この光景は、我々にとって予想外でもあり、素晴らしいものでもあった。ポアンカレ(フランス駐露大使)の公式訪問のときには、同盟罷業が行われ、警察は革命分子の取り締まりに血眼であるとの噂であった。戦争が起これば、労働運動は革命化するとさえ言うものもあった。だが、今眼前に見る光景は、若者も年寄りも女も子供も、愛国心に燃え、階級を超えて、一死報国の熱に我を忘れた姿である」

…「やがて冬宮の二階正面の露台に、夏の軍装に身を固めたニコライ皇帝の姿が現れると、広場の群衆は、さらに熱狂の度を高めて、一背に、ウラーを叫ぶ。やがて旗を振り、手を挙げ、国歌を歌い始める。皇帝もまた右手を高くあげて群衆に答えられる。間もなく、皇后アレクサンドラの白服の姿が露台に現われて、群衆の喚声は鳴りもやまない。おそらく、ニコライ皇帝とロシア国民との心のつながりは、即位以来、この時ほど密着した瞬間はなかったのではなかろうか」…


 つまり、戦争の最初期においては、ロシア国民の世論が本当に一致したのです(翌年の19156月にはストライキが発生し、一年もしないうちにこの結束の瓦解が明らかになりますが)。726日にはドゥーマが開催され、各党代表が戦争協力を誓います。ボリシェビキ、メンシェビキは共同で戦争反対の声明を朗読し、退場しましたが、さすがに「一切の侵害から国民の文化的財貨を守る」との一説を声明に盛り込まざるを得ませんでした。83日には、ポーランドのガリシアでレーニンが逮捕されます。さらに、首都サンクトペテルブルクの呼称がドイツ的として(実際にドイツ人に発音を聞いてもらったところ、確かにドイツっぽいとのことでした)、ロシア的な(?)ぺトログラードに変更されました。バッハ、ブラームス、ベートーベンなどの音楽も禁止、ドイツ的風習としてクリスマスツリーまで禁止します。







(右) 1914年発行15コペイカ銀貨 西暦下のミントマークが
С.П.Б.(サンクトペテルブルク)です

(左) 1915年発行10コペイカ銀貨 首都改名に伴い
ミントマークを削除しています


画像の著作権はありません。




 さて、ベルギーに侵攻したドイツ軍ですが、ベルギーの頑強な抵抗に阻まれ、時間を浪費した隙にフランス・イギリス軍に戦争準備の余裕を与えてしまいました。またロシア軍の総動員が非常なスピードで進んだこともあり、ニコライ・ニコラエヴィッチ大公総司令官(実戦経験はありませんでしたが)、ヤヌシケヴィチ参謀総長率いるロシア軍は、レネンカンプの指揮下ワルシャワを占領、ケーニヒスベルグ、タンネンベルグに迫り、ロシア軍がベルリンを窺う予測もとり沙汰され、ドイツは危機に立たされます。そこで、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は急遽ヒンデンブルクを起用してルーデンドルフを参謀総長とし、西部戦線から2個師団半を与え、計6個師団を東部戦線に向かわせました。

 1914823日から9日間、タンネンベルクでロシア軍とドイツ軍が激突し、ヴィルヘルム2世の人事が大成功してこの作戦は見事に決まり、サムソーノフら率いるロシア第二軍5個師団を完全に包囲殲滅することに成功します。サムソーノフは自殺し、ロシア軍の死者7万、捕虜92千を出したということです。1410年7月15日、リトアニア=ポーランド同君連合国、モスクワ大公国連合軍5万が、チュートン騎士団32千と、グルンヴァルト村とタンネンベルクの間の野で激突してスラヴ勢が勝利を収め、チュートン騎士団の弱体化が決定的となったタンネンベルクの戦いをとって、このときの戦いもタンネンベルクの戦いと呼ばれます。500年近い時を経た、ゲルマン勢の、スラヴ勢に対するリベンジが成功ということでしょうか。

 ところがこの包囲成功の代償として、ドイツ軍の開戦当初の早期戦争終結のためのシューリフェン計画、西部戦線においてドイツ軍右翼に圧倒的な兵力を配備してフランス軍左翼を圧倒し、ドイツ軍右翼が前進しつつ大旋回を行なって、ドイツ軍左翼と協力してぐるりとパリを包囲するという計画が、東部戦線へのドイツ軍の引き抜きによりドイツ軍右翼に圧倒的な兵力を配備することができず台無しとなってしまいました。戦争の早期終結を至上命題とするドイツにとって戦略的にみると、このタンネンベルクの会戦はやってはならない戦いだったのではないでしょうか。逆にいえば、ロシア帝国は自らを犠牲にして三国協商加盟国として最高の働きをしたということになります。

 足止めを食ったドイツ帝国軍ですが、戦争のさなかですので良い代案のあるわけもなく、やむなく縮小版シューリフェン計画を実行したところ、ドイツ軍右翼はフランス軍に進撃を阻まれ、どころかフランス軍の将軍ジョッフルにより、191495日より行なわれたマルヌの戦いで中央突破を蒙り、ドイツ軍の右翼と左翼が分断されてしまいます。おかげでパリ包囲は不可能となり、戦線は膠着状態に陥ります。ここでロシア軍は休息をとる必要があったのですが、イギリス・フランスの追撃要求により、11月、シレジア、ポズナンに攻撃をかけました。フランスの外債で国家予算を組んでいた当時のロシア帝国によってこの要請はとても断ることができなかったのでしょう。そこで、ドイツ軍は西部戦線から14個師団を引き抜いてロシア軍に当たらせ、損害を与えます。

 ここにいたってドイツ軍は戦前の計画を変更し、先にロシアを叩くことに決定、西部戦線からさらに13個師団を引き抜き、マッケンゼン将軍の指揮の下、1915年から東部戦線全域に渡って攻撃を開始しました。さて、開戦当初から大打撃を蒙ってしまったロシア軍ですが、さらにこのドイツ軍の攻勢が始まり、ガーリチからの退却、ワルシャワの放棄、ドイツ軍によるリトアニア全土の占領、クールラント・ベラルーシ・ウクライナへのドイツ軍侵入、ロシア軍の40万人近い損害、と「大退却」が始まります。

 このロシア軍の退却には、高校で理系化学を選択した人は必ず習わさせられる、アンモニア合成のハーバー・ボッシュ法で名高いハーバーが中心となって準備された毒ガス攻撃をくらったこともあずかって力ありました。1914712日、ガリモフで初攻撃がおこわなれた、塩素とホスゲンの混合ガスによる攻撃は、科学技術の立ち遅れでロシア軍は防毒手段が常に未熟であり、毒ガス攻撃による被害が甚大だったのです。

 防毒マスクも、活性炭(ホスゲン防毒には活性炭が効果があるとはいいますが)をつめた吸収缶を胸につけただけという簡素なものでした。じきにハーバーの研究室が開発した、吸入せずとも皮膚に触れるだけで被害を受けるイペリット(フランス軍の呼称)、またはマスタード・ガス(連合軍の呼称)、または黄十字(ドイツ側の呼称)などが登場してからは毒ガス攻撃に対してロシア軍は全く打つ手なしという状態になります。毒ガス攻撃による報復攻撃の行えなかったロシア軍は、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けっぱなしという状況となり、結局、毒ガス攻撃によるロシア軍の死者は56千人を数えました。




      


緑色の玉は塩素、白色の玉は酸素、オレンジ色の玉は炭素


ホスゲン(左)、塩素(右)







 しかし、この退却により、ドイツ軍は補給線が延びた一方、ロシア軍は補給線が縮小したことで、ロシア軍はドイツ軍を食い止め、リガ・ヴィルナ・ビンスク・タルノポールの線で防衛線を構築することに成功しました。しかし、この「大退却」はやはり評判が悪く、内閣改造が叫ばれ、物資不足の進行も問題になっており、打ち続く戦争で銃後の生活を脅かされた市民たちによるストライキも6月ごろから再発していました。そこで1915719日、ドゥーマが開催され、国防特別審議会(各省代表、両院代表、中央戦時工業委員会、自治体連合代表により構成)、が設置されます。

 さらに、戦争指導失敗の責任をとって最高司令官ニコライ・ニコラエヴィッチ大公および宰相ゴレムイキンの更迭が大臣達から求められますが、ニコライ2世はニコライ・ニコラエヴィッチ大公の罷免には同意したものの、宰相ゴレムイキンは留任させ、あまつさえラスプーチンに説得され、1915年、自分が総司令官になる方針を打ち出します。

 大臣達は皇帝が宮廷を離れることによる政治の弱体化、ひいてはアレクサンドラ皇后とその後ろに控えるラスプーチンの権勢増大を恐れ、8人の大臣が連名で書簡を出し、この人事に反対しますが、皇帝は最初の人事を貫徹しました。そこで大臣達が次々と抗議の意味と、沈む船からねずみが逃げ出すがごとき意味を含めた辞任を行い、ラスプーチンが宮廷内の人事を握り、政局はますます混沌としてきます、というか、誰がロシア帝国の政治に責任を持つのだろうという状態になります。

 もっとも軍事的にはこの人事は功を奏し、最高司令官は皇帝ニコライ2世ですが、参謀総長はヤヌシケヴィチからアレクセーエフに交代し、ロシア軍はドイツ軍の進撃を食い止めます。のちにロシア軍はガーリチまで再侵攻しますが、これは1916221日の、ドイツ皇太子を総司令官とするドイツ軍のヴェルダン要塞への総攻撃が失敗し、ドイツ軍の攻撃が鈍ったからです。

 ドゥーマでも、自由主義者の発言力が強まり、カデットのリヴォフ公、同じくカデットのチェルノコーフ、オクチャブリストのグチュコフ(ロシア赤十字社の社長)、進歩党のコノヴァーロフらの肝いりで、ドゥーマ議員の過半数が参加した「進歩ブロック」が結成されました。彼らは、大臣は皇帝でなく国会が選出するものと要求し、議員製内閣、政治犯の恩赦、ユダヤ人差別撤廃、労働組合、労働者新聞の合法化、なども要求しました。

 ニコライ2世はこの非常事態に大掛かりな改革を行なうことの危惧を訴え、またこの措置は皇帝の大権を制限することそのものですから、承服しませんでした。そこで、首相のゴレムイキンは「進歩ブロック」の要求を拒否し、916日に国会を停止します。このときは心配された騒ぎもおこらず、ペトログラードは平穏なままでした。この二日後の918日、皇帝は総司令官となり、前線に赴きます。

 ところが、どうにもならないのが生産体制です。総力戦といわれたこの第一次世界大戦は、膨大な食料・燃料・兵器・人的資源を食い、物資不足が深刻な状態に達し、事態を打開するためラスプーチンは19161月ゴレムイキン首相にかわってシチェルメルを首相に据えますが、こんな小手先のことでは状況が良くなるはずもなく、どころか人手不足を解消しようと中央アジアの民族を鉄道・軍事施設建設に徴用しようとしたところサマルカンドで反乱が起こります。そこでラスプーチンはつぎに191611月に運輸省トレポフを首相に任命しますが、やはりこの巨大な歴史の歯車を動かすことができようはずもなく、事態は悪化していくのみです。以下にそんな資材逼迫の一例として、郵便切手型小票(一部)、定額補助紙幣(一部)、加えて寄付金付切手を載せておきます。








資材逼迫の一例
1915922日、郵便切手型小票の発行

見た目は普通の切手です。左から額面101520コペイカ
(というか普通の切手に何枚か紙を
重ね貼りして厚手にしてあります。)





裏返しにしてみると以下の文字が(新正書法に直します)

Имеет хождение наравне с
разменной серебряной монетой.
「両替用小銀貨と等しい流通力を持つ。」というわけです。





つまり、金属逼迫およびそれに伴う臣民の金属秘匿により、
下に写した銀貨の換わりに、切手を補助貨幣として流通させる
という苦肉の策だったのです。





1915126日より発行の低額補助紙幣2コペイカ(左、表)
銅の逼迫で、銅貨(右、2コペイカ)すら紙幣で代用しています。

書かれている文字は、新正書法に直すと
2 копейкй имеют хождение наравне с медной монетой.

2コペイカは銅貨と等しい流通力を持つ。」というわけです。





低額補助紙幣(裏)


日本でも第二次大戦末期、金属逼迫で陶器の硬貨が
試鋳(焼?)されたと聞きます。
しかし流通したとまでは聞いておりません。





(左)ミントマークなしの10コペイカ硬貨(1916年発行)
(右)ミントマークありの10コペイカ硬貨

右の硬貨のミントマークのВСはヴィクトル・スミルノフ、
当時の造幣局長の名前です。

なぜ左の硬貨にミントマークがないかといいますと、
これはロシアの戦況逼迫による金属隠匿・人手不足により
貨幣製造が間に合わず、一部の硬貨を大阪造幣局に注文し、
ロシア政府提供の極印を使用して日本で製造しました。
日本製造の硬貨にはミントマークは刻印しなかったのです。




 1914年、15コペイカ銀貨(サンクトペテルブルク)
 1916年、15コペイカ銀貨(大阪造幣局発行)
 1923年、15コペイカ銀貨(ソ連時代発行)


上の図はXRDパターンですが、1916年の銀貨(:Ag)ともなると、
混入されたとみられるかなり強い銅(Cu)のピークが見られ、
明らかに銀貨の品位が落ちています。





寄付金付切手 額面1,3,7,10コペイカ
一番左の切手に書いてあるロシア語を訳しますと、

1коп
в пользу воинов и их семейств
продажная цена 2коп

1コペイカ
戦争と家族のため
売値2コペイカ

つまり、1コペイカ分は帝国に寄付してくれということです。



しかし、何も物資逼迫はロシア帝国に限った話ではありません。
ドイツ帝国も同様です。





バルト諸国におけるドイツ軍占領地域で発行された
軍用手票ならぬ鉄製の軍用貨幣


ドイツも銅の逼迫により、鉄製の貨幣をつくりました。
さびやすくてこまるんですが…。


鉄十字の中に3コペイカとロシア語で書いてあります。





見えにくくてすみません、ドイツ語で
「東方最高司令部領」と書いてあるそうです。





磁石にくっつきます。
念のためXRDX線回折)で結晶構造を調べると、





XRDパターンもきちんと鉄に帰属されます。
ただこの手法だと鉄と同じ構造のCr(クロム)
などが固溶している場合、クロムの有無が断定
できません。


SEM走査型電子顕微鏡)写真もとって
EDX(エネルギー分散型分光)もやります





ヤーチの部分を拡大しました






倍率1050倍、あまり面白くないかもしれません…。






EDXで分析すると、組成はものの見事に
Feです(炭素Cも検出されたので正確には鋼)。
純度100%に近そうです。


画像とデータの著作権はありません。




 まさに大戦参加国の国内の資源を枯らしつくしての総力戦が行われたわけです。さて、ラスプーチンの専横を前にしても、臣民は恐れはばかって皇帝の裁可に表立って文句は言えませんから、皇太后及び皇族たちから、皇帝に対しラスプーチンと皇后の関係を断ち切れとの声が出ますが、ニコライ2世はこれを受け入れませんでした。

 そこでとうとうラスプーチン暗殺の話が持ち上がり、皇帝の姪のイリーナを妻に迎え、ロシア帝国最大の資産家で皇帝より富裕なフェリックス・ユスーポフ公爵邸でラスプーチンを暗殺する計画が立てられます。19161216日、ユスーポフ公爵が自邸にラスプーチンを招き、身辺警護の保安員を帰宅させた後、暗殺計画を実行に移します。ラスプーチンは、3人の協力者(ドミートリー大公、ドゥーマ議員プリシケーヴィチ、軍医)の一人の軍医が仕込んだ青酸カリ入りの菓子を、ユスーポフ公爵の勧めで23個食べましたが効き目がありませんでした。そこで公爵は、前もって用意していた青酸カリを塗ったワイングラスを三個使い、ぶどう酒を飲ませます。

 さすがにこれは堪えたのか、ラスプーチンは両手で頭を抱え床にうつぶせます。ところが、ラスプーチンは、頭が痛いのでお茶をくれと言い、ユスーポフ公爵がお茶を用意したところ、それを飲んだラスプーチンは元気を取り戻します。ユスーポフ侯爵はあわてて協力者たちのいる控室に引き返し、ドミートリー大公からピストルを借り、取って帰ってしばらくしてラスプーチンに2発撃ちこむと、ラスプーチンは倒れました。控室の協力者たちは二階に引き上げますが、様子が気になったユスーポス侯爵が部屋に戻ったところ、ラスプーチンは隙を見て起き上がり、公爵を振り切って邸から逃げ出しました。そこでドゥーマ議員プリシケーヴィチがラスプーチンを追い、銃弾四発をラスプーチンに打ち込み(2発命中)、倒れたところを、頭をけりつけますが、ラスプーチンはまだ生きていました。

 駆け付けたユスーポフ公爵がこん棒で殴りつけ、縄で縛り上げ、毛布でくるんだうえで、ネヴァ川の結氷の間に放り込みました。死体はやがて発見され、ヴィボルグ陸軍病院で検死されましたが、右手の縄がほどかれており、肺に水が大量にたまっていたため、ネヴァ川に放り込まれて時点では生きており、死因は水死と判定されました。

 しかし、そもそも有能な大臣達が次々と辞職し(もとをただせばこれはラスプーチンの登用が原因ですが)、国政に責任をもとうとする人間が誰もいなくなったから、ラスプーチンが台頭した訳で、しかもラスプーチンの行動は、自ら政治の指揮をとるというものではなく、むしろ権力亡者たちへの政治斡旋人でありまして、正直彼に事態を好転させる力も暗転させる力もあったとは思えません。その証拠に、彼を殺害しても事態は好転せず、とめどないロシア帝国の落下状態は相変わらずでした。

 しかも、ラスプーチンはなぜか一貫して戦争には反対であり、1912-1913年のバルカン戦争にたいして介入は強く反対していました。第一次世界大戦突入時は、丁度その時彼の情婦に刺されて重傷を負っており、強く皇帝に意見できる状態ではなりませんでした。むしろ、この事件は、戦争となれば必ず反対を皇帝に意見してくるであろうラスプーチンの足止めを狙った開戦派が仕組んだ事件であるのではないかと勘繰られるところですが、それを証明するに足る証拠を今のところ僕は持っていません。むろん、彼が善人であったかどうかはわかりませんし、巷の話が本当なら、とんでもなく不道徳な面があったのは間違いありません。しかし、彼は後世、この時代のロシア帝国の失政を一身に体現させられた、いいスケープゴートにされた人物だと私は考えます。

 超常の力を持つと恐れられ、当時迷信的な恐怖にとりつかれた人々の間で「口では言えない男」や「名無し男」と呼ばれたラスプーチンですが、この畏怖は現在にも伝わっております。たとえば、未公開のラスプーチンの文章を古本屋で手に入れたロストロポーヴィチが、その話を小林和男氏にしていると、突然止まっていた骨董品の古時計が動き出したとか、彼に関するさまざまな怪奇現象は未だに耳にします。僕自身の経験では、何をとち狂ったか、朝の4時半ごろ、このHPに載せるラスプーチンに関する文章を書いていたときに、突然ワードがクラッシュし(ここまでは特に珍しいとはいえませんが)、さらにワードが再起動したことがあります。まったくの余談ですが、たまに日本で「○×のラスプーチン」なる言葉である個人を指す場合がありますが、「ラスプーチン」の言葉は少なくともロシアにとっては軽々しいものではないと思います。

 本物の信仰心と強烈な反道徳的行為、あくなき功名心と金銭面での無欲、何者にも物怖じしない態度と非戦主義、やはり彼も、同一人物内に同時存在するのが通常不可能と思える、極端に相反する面を自己に抱え込みつつ、その両面がフル活動して自己が崩壊しないというロシア人の一典型だったのでしょう。崇拝者には神のごとく扱われ(10種類くらいイコンまで作られています)、敵対者には悪魔のごとく嫌われたラスプーチンですが、この両極端の評価は、彼が尋常な人物ではなかったことの現れです。







ラスプーチンのイコン

現代ロシア語に直しますと
святой мучник Григорий ново

といった風になりますので、
聖人としてのタイトルは「新致命者」です。

1990年代からラスプーチンを列聖し新致命者
の称号を与えようとの動きがあったようですが、
2003年当時のモスクワ総主教アレクシー2世に
拒絶されております。



 そして、ラスプーチンの死後三週間ほどでロマノフ朝は崩壊しますが、これまでラスプーチンに向かっていた臣民の不満は、これからは皇室に直接向かうことになります。


     〜 3. 二月革命勃発ー予想外の革命 〜

 世界大戦の趨勢ですが、19171月、苦し紛れのドイツが、イギリスを中心とする協商側の補給を何が何でも断とうと、地中海と北海水域にある全ての中立国船舶無制限撃沈を宣言し、21日から作戦を実施します。イギリスは、船舶保護のため日本政府に、地中海への日本艦隊の派遣を要求します。日本政府は見返りとしてドイツの中国に置ける山東省の権益、および赤道以南のドイツ領南洋諸島の日本領有を支持することを要求し、これが各国に認められた後に日本は艦隊を派遣します。

 アメリカが23日、ドイツと断交し、中華民国政府にも参戦を勧誘します。さらにドイツのUボートを使った無制限潜水艦作戦により、イギリス船ルシタニア号が撃沈され、その船に多数のアメリカ人乗客がのっていたことから、これを理由に191746日(グレゴリウス暦)に時の大統領ウィルソンがドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦します。このアメリカ参戦は、第一次世界大戦の帰趨を決めるものとなりました。

 191719日、血の日曜日事件12周年を記念してペトログラードで行なわれた記念ストライキは、145301人を数え、かつてない大規模なものとなりました。これを見た中央戦時工業委員会労働者グループは、214日のドゥーマ開催当日にストライキを決行し、タヴリーダ議事堂まで行進する計画を立てます。この事件をきっかけに革命でもおこされてはたまりませんから、政府は労働者グループ全員を逮捕します。これにボリシェビキが反発し、彼等の呼びかけにより14日当日ストライキは決行されますが、行進は行なわれませんでした。

 ところが223日(38日)、この日は国際婦人デーでして、現在では、息子や夫や彼女のいる男、女の先生に習っている男子生徒などが、母親や妻や彼女や、女の先生にチューリップの花を買ってカードと一緒に送ったり、さらにはプレゼントを贈ったり、その日の家事労働を全て負担したりなど、なかなか大変な日なのですが、ともかくそのような日なので、どの政治団体もデモを予定していませんでした。しかし、ボリシェビキの政治工作を受けていたらしいヴィボルグ区の女子労働者がストライキに入り、これに男子労働者が呼応し、ネフスキー通りを目指して行進を始めました。

 この日、ペトログラードに戻っていたニコライ2世は「余暇にはドミノでもして遊ぼう」との言葉を残して前線に向かい、この日の夜、フランス大使館では晩さん会が開かれ、話題はバレリーナのパブロヴァ、カルサヴィナ、クシェンスカヤ(ニコライ2世の若き日の恋人)の誰が最高のスターか、というものでしたからフランス大使パレオログも異変に気づいていない模様でした。翌224日夜、滞露歴7年のイギリス大使ブキャナンも、休暇を短縮してペトログラードに戻ってきましたが、本国政府に「本日、首都に若干の騒動があったが、格別心配すべき事態とは認められぬ」と報告しました。

 このストライキはたちまち他の地区にも広がり始め、25日にはペトログラード全市に広がり、電車とバスが止まり、新聞も発行されなくなりました。しかも、この日はデモの鎮圧に向かったコサック騎兵が、血の日曜日事件のときは群衆を切りはらったコサック騎兵が、鞭をふるわず剣も抜かず、デモの隊列に分け入って馬上から手を伸ばし、暴徒と握手し談笑するという恐ろしい光景が見られました。しかも、警官隊が群衆に発砲すると、コサックがそれに対し応射を浴びせたのです。

 政府は緊急閣議を開き、プロトポポフ内相を除いて全員が辞職の決議を固め、前線のニコライ2世に対して速やかにドゥーマの受諾する立憲内閣を任命することを要請しました。ちなみにこの日は日本の奉天会戦の陸軍記念日でした。外務次官補の芦田均は


 
…陸軍武官石坂少将は在留邦人を官邸に招いて晩さん会を開いた。その昨夜、八時半からは日露協会総会が開かれ、信任内田大使に歓迎の意を表した。ロシア側から顕官要人をはじめ、東洋学の専門家などが列席して、歓談に時を移した。誰一人として、革命という言葉を漏らしたものはなかった…


 と記しています。つまり、列強諸国の首脳は、みなこの騒乱を、最近ペトログラードで続発するようになった騒乱の一つとしか思っていなかったのです。

 モギリョフの大本営にいた皇帝は、内閣の要請を拒否、ペトログラード軍管区司令官ハバロフに騒乱鎮圧命令を出し、26日には軍はデモ隊に銃撃を浴びせます。芦田均の語るその情景は


 
…昨日にまして今日は警戒の兵隊が街々を守っている。午後になって、大通りは示威運動と見物人でいっぱいになった。赤旗を出したものがある。警官の一隊がたちまちそれを奪った。群衆がそれを奪い返そうとして、ひしめいている。バラバラと帛を裂くような響きがして、群衆の目はみな異様に輝いた。ネヴスキイ街で、ついに歩兵の一部が群衆を射撃したのである。


 発砲したのはパヴロフスキー連隊の第四中隊です。この発砲で百名の死傷者が出ましたが、犠牲者の一人は中隊の兵の母親でした。これにショックを受けた第四中隊は以後の出動を拒否、反乱を起こすも鎮圧されます。ヴォリンスキー連隊も市民に発砲を命じられると、銃口を空に向けて発射、ハバロフ司令官はこの連隊を武装解除させて帰営させることになんとか成功しましたが、もはや軍規はかろうじて崩壊をとどまるのみです。

 この夜、騎兵将校出で、ドゥーマ議長のロジャンコは前線のニコライ2世に急電を送ります。


 
首都は無政府状態にあり、行政は完全にマヒした。目下、市街戦は全市に広がりつつある。今や、国民の信頼を受ける責任内閣が時局を救いうる唯一の残された方策である。この期に及んで逡巡すれば、滅亡あるのみ。破局の責任を陛下に帰せしめざる用に、善処ありたい。


 ニコライ2世はこの報告を無視し、かわりにアレクセーエフ司令官の反対を無視して、ガリシア(ポーランド)戦線に滞陣していたイヴァノフ大将に対し、精鋭部隊を率いて直ちに首都に進軍するように命じました。

 しかし27日、さらにヴォルインスキー連隊で下士官が上官を射殺する重大軍規違反が起こりました。もはや後には引けないとばかりに、ヴォルインスキー連隊は、ピョートル大帝の創立したあのプレオブラジェンスキー連隊とモスクワ連隊を巻き込み、三つの近衛連隊が一緒になって労働者と共に牢獄から政治犯を釈放し、大砲工場から大量の武器を盗み出しました。ハバロフは鎮圧部隊を派遣しますが、町に押し寄せた市民の並の中で前進できず、兵が隊を離脱し鎮圧部隊は自然消滅してしまいました。当時の警視総監ヴァジリエフの手記にこうあるとのことです。


 
…ひっきりなしに電話がかかる。S連隊が反乱した…L連隊も暴動に加わった…暴徒は大挙して警察署を次々と襲って放火している…工兵師団長のD少将が惨殺された…槍騎兵連隊のF大佐は逮捕された…裁判所が燃えている…監獄も焼きうちされた…囚人を全部解放したようだ…という調子で水を飲む暇もあらばこそ。窓からのぞくと、兵を満載した自動車が西に東に狂気のように走り回っている。刻々と赤旗が増える。銃声も近づいてくる。喊声が聞こえる。だが、流言ばかりで正確なことは、誰にも分らない。


 かくしてペトログラードは完全な無政府状態に陥ってしまいました。政府は結果としてこれがロマノフ朝下における最後の閣僚会議となった緊急閣議を開き、皇帝の弟ミハイル大公を通じてニコライ2世に最後の訴えを出します。大公は大本営に連絡し、アレクセーエフ将軍を通じて、国民の信頼できる立憲政府を即刻任命するよう懇願しました。40分後に返事が届き、皇帝は直ちにツァールスコエ・セローに帰りその後に指示を出すとの回答がありました。

 さて、ここで二つの政治グループが台頭します。一つは中央戦時工業委員会労働者グループで、これはメンシェビキが中心となって組織され、「ソビエト臨時執行委員会」の名前で労働者は1000人、軍隊は中隊ごとに1人の代表を選んで、ドゥーマで7時から開かれる第一回の会合に集合するようビラを撒いたもので、結局チヘイゼが議長に選ばれ、副委員長は当時36歳のケレンスキーとスコベレフで、執行委員15人が選ばれました。二月革命の報がロシア全土に伝わると、各地でソビエトが結成されます。二つ目のグループは、ドゥーマ議員たちも権力を握ろうと、ドゥーマに協力したエスエル党の中心人物ケレンスキーらがなんとここでも活躍し、深夜二時、12人の委員からなる「ドゥーマ臨時委員会」なる委員会を結成したもので、このグループは各省庁の建物を接収しはじめました。

 この報はモギリョフの大本営にいるニコライ2世のところにも届き、27日には皇帝自身もツァールスコエ・セローに向かいます。ところが反乱により列車が前進を阻まれたので、皇帝は北部方面軍司令部プスコフへ向かい、イヴァノフ大将もツァールスコエ・セローに到着した段階で守備隊の反乱が起こり、撤退します。さらには、ピョートル大帝の創立した近衛連隊、プレオブラジェンスキー連隊までが27日に反乱を起こした事件の情報が届き、事態は帝政によって絶望的となりました。

 29日、ニコライ2世は最後の手段として、ルーススキー将軍にロジャンコと連絡させ、国会の受諾する首相のもと、立憲政府を任命する用意がある、と電報を打ちました。しかし、ロジャンコの返事は以下のようなものでした。


 
陛下には首都の実況はお分かりになるまいが、苛烈な革命が勃発し、皇后に対する民衆の憎悪は刻々に増大しつつある。…軍隊を派遣しては困る。私にしたところが、やっと局面を処理しているだけのことであって、いつまで実権を握っていられるかわからない。陛下のお申し出は遅きに過ぎた。もう間に合わない


 3月1日に、大本営にオクチャブリストのドゥーマ議長ロジャンコが現れ、ペトログラードとモスクワで革命が起こり、社会団体委員が発足して市内の全権を握ったことなどを軍首脳に伝えます。結局、イヴァノフ大将の指揮下で反乱を鎮圧する予定だった北部方面軍司令官ルーススキー将軍が、プスコフについたものの、車内に半ば閉じ込められたニコライ2世にロジャンコ内閣の成立を認めるよう迫り、皇帝は折れ、革命状態を認めることとなります。

 ソビエト執行委員とドゥーマ臨時委員会の間で話し合いがなされ、臨時政府はドゥーマ主体で成立することで合意が成り立ちました。さらにロジャンコは皇帝に暗に退位を迫り、軍首脳も皇帝に皇太子に譲位を進言しました。ここにニコライ2世は血友病の皇太子は政務を執ることが不可能だと判断し、弟のミハイル公に譲位することに決めました。

 こうしてリヴォフ公(ゼムストヴォー会議議長、カデット党員)を首相、外相ミリューコフ(もとモスクワ大学の歴史学教授にして解放同盟指導者、カデット党首)、司法相ケレンスキー(トルードヴィキで弁護士、エスエル党でサマラ県のドゥーマ議員)などの臨時政府の樹立が宣言されました。ケレンスキーの入閣にはソビエトが反対しそうでしたが、彼は単身ソビエト臨時執行委員会の集会に出向き、ソビエトを説得してしまったのです。ケレンスキーの演説を聞いたことのあるイギリスの諜報部員のロバート・ブルース・ロックハートは「後にヒトラーの演説を聞いたが、ケレンスキーの方がずっと雄弁だと思う」と書いている、ケレンスキーの恐るべき弁舌の才でした。







ケレンスキー(中央の白い服を着た人物)
1917年8月12日モスクワ国家会議に到着




 ニコライ2世はリヴォフ公を閣僚会議議長(首相)に任命する勅令に署名した後、退位を宣言し、ミハイル公を帝位継承者に指名します。しかし、ミハイル公も帝位継承権を放棄し191734日、ニコライ2世は退位勅書を発して、ここに304年続いたロマノフ朝は終焉の時を迎えることになりました。皇帝一家はそのままツァールスコエ・セローへ監禁されます。

 ドン・コサックの頭目であり、のちの内戦時代、もっともボリシェヴィキを脅かした旧ロシア帝国将軍デニーキンは、「この(皇帝退位)決定の日に、革命的指導者は一人もいなかった。いたのはただの革命分子だけである。この分子の奔流には、目的も計画も、はっきりしたものは何一つなかった」と述べているそうです。たしかに、ボリシェヴィキのメンバーにかぎって考えてみても、レーニンとジノヴィエフはスイスに亡命中、トロッキーとブハーリンはアメリカに亡命中、カーメネフとスターリンはシベリア流刑中で、後の主要メンバーは誰一人ペテルブルクにはいません。そう考えると、ロシアには職業的革命家を必要とせず、ただ民衆蜂起に期待するべきだと主張してナロードニキ運動の理論的指導者となった無政府主義者バクーニンの考え方が、皮肉にもいちばん真理に近かったというべきでしょうか。

 ロシア帝国の瓦解は、民族国家独立を意味しており、ウクライナはいち早く34日中央ラーダ(ウクライナ語で議会のことで、ロシアのソビエトにあたります。)を設立し、6月には第一次ウニヴェルサルを発表し、ウクライナはロシア連邦内の自治区であることを宣言しました。また、フィンランドでは帝国法規の運用が停止されることが決定されました。

 外相ミリューコフは、当初アレクサンドラ皇后の母親はヴィクトリア女王の末娘ですし、この縁からニコライ2世はイギリス国王ジョージ5世といとこの間柄ということで、皇帝一家をイギリスへ亡命できるよう取り計らいます。が、おりからのイギリス国内の労働運動と社会主義運動の高まりの中、国民を余計に刺激するのはまずいとイギリス政府はこの申し入れを断りました。

 さて、臨時政府がスタートしたロシアですが、なにせ帝政時代に各国と結んだ同盟や協商関係が生きていますので、戦争を勝利に終わるまで遂行すると宣言します。

 というか、停戦による借款の停止を臨時政府の面々は何より恐れたのでしょう。もともと臨時政府のメンバーは資本家と穏健な地主階級です。ことに資本家は、戦争から離脱することでの、特にフランスからの借款の停止、さらに新たに第一次世界大戦に参戦したアメリカも、「No fight, no loan.(戦わないなら借款なし)」と臨時政府をせめたてたのです。結局アメリカがロシアの戦争続行の確約に対して与えた借款は325百万ドルでした。万一借款停止が実現されたらロシア国内には、工業化まっしぐらのロシアを支えるだけの大量の融資を引き受けられるほどの強力な金融資本は誕生していませんから、これは経営者にとって何より恐ろしい、資金繰りの道を断たれるということになってしまいます。したがって、本当はこれ以上戦争を続けないほうが得策なのはわかっていたのでしょうが、融資を受けるためにはやむを得ず、戦争を続行することにします。臨時政府と手を結ぼうとしたメンシェヴィキも同様の考えを受け入れます。戦争遂行を確約したおかげで、米・英・仏・伊の列強諸国が相次いで臨時政府を承認、臨時政府はかなりの権威をもつことになります。

 さて、帝政が倒れたということで政治犯の恩赦も決定され、北極圏へ流刑に処せられていたスターリン、カーメネフも314日ペトログラードに舞い戻りました。スイスへ潜伏していた極左のレーニンやジノヴィエフ、穏健派でメンシェヴィキのマルトフも、ロシア帝国内の革命が進展して国家が崩壊し、戦線から離脱することを望んだドイツが用立てた封印列車(レーニンがドイツでボリシェヴィキの大宣伝をやらかさないよう、ドイツのルーデンドルフ参謀総長が特別に用立てした、レーニンとドイツのあらゆる人物の接触を絶つべく特別な警戒を敷いた列車)で42日ペトログラードへ送り返されました。この封印列車は、スイスの社会主義者で国際主義者、そして実際はドイツのスパイであろうと言われるブラッテンの仲介でドイツ政府が用立てたものです。これが将来明るみに出れば、交戦国と手を結んだと非難されかねないですが、レーニンは、背に腹は変えられないと踏んだのでしょう、「原則には忠実、戦術は柔軟」な彼らしい発想です。結局このようにドイツ経由で帰国したロシア人革命家は200名以上にのぼったと言います。







若いころのスターリン




 さて、10年ぶりにロシアに戻ると、当時ボリシェヴィキの本部となっていたクシェンスカヤ邸でレーニンはボリシェヴィキの面々を前に過激な演説をぶち、さらにレーニンは44日、ボリシェヴィキのソビエト代表の集会に姿をあらわします。この当時のソビエトは、穏健派のメンシェヴィキが実権を握っておりまして、この集会では、スターリンの発案で、ボリシェヴィキはメンシェヴィキと合同し、せっかくのチャンスですので、臨時政府内部にはいって政権に関与しようと話し合っていたのです。この空気の中、極左のレーニンが演壇に立ちました、いわいる「4月テーゼ」です。4月テーゼの内容は、以下のようなものでした。

 第一次世界大戦が、革命的防衛戦争であるというのは間違いである。なぜなら、革命的防衛戦争はブルジョア政府のもとではありえないからであって、この戦争は、資本家の利益にしかならない戦争である。したがって、このことを前線の兵に説明し、戦争を止めさせなければならない。今の臨時政府は、カデットなどを中心とするブルジョア臨時政府である。ブルジョアが奪取した権力を、今度はプロレタリアと貧農が奪取せねばならない。

 議会制共和国でなく、全国に及ぶ、労働者と農民のソビエト共和国を建国せねばならない。警察・軍隊・官僚は廃止し、官吏は全て選挙でなおかついつでも交代でなければならない。全ての地主所有地は没収され、全ての土地は国有化され、再分配されねばならない。全ての銀行は全国的銀行に統一され、労働者ソビエトが管理する。生産と分配のソビエトによる統制が必要である。党大会を招集し、綱領を改め、党名を変更せねばならない。新たな革命的インターナショナルを創立せねばならない。

 このような過激なテーゼはやはり受け入れがたいものがあり、ペトログラード党の市委員会はレーニンのテーゼを132で否決しました。カーメネフも、48日の『プラヴダ』で、このテーゼはあくまでレーニンの個人的見解であると書きます。しかし、414日のペトログラードのボリシェヴィキの全市会決議は、臨時政府を非難し、「全ての権力をソビエトへ」と呼びかけるレーニンの提案を373で可決します。ここにきて、レーニンは突如ボリシェヴィキの多数派となりおおせたのです。

 しかし、こんな過激な連中を、臨時政府の面々が政権内部に取り込もうとするはずがなく、当面ボリシェヴィキの政権運営のタッチはお預けとなるかに見えました。しかし、トロッキーがアメリカから帰国し、レーニンの片腕として縦横無尽の活躍を始めると、ボリシェヴィキは非常に勢力を拡大していったのです。

 列強に対しては、あくまで戦争遂行という意思表示をした臨時政府ですが、国民感情というものもあります。シベリア帰りのメンシェヴィキェレチェリを政権に加えることに成功した、メンシェヴィキの握るソビエト臨時執行委員会は、どちらかといえば戦争には反対の意思を表明し、「人民が戦争と平和の決定権を自らの手に握る時がきた」と主張し、国土防衛は認めるものの、無併合・無賠償の講和を目指していました。ところが、ミリューコフが418日に書いた「覚え書」が、420日新聞に発表されました。内容は、「全く逆に、みんながめいめいの共通責任を自覚したために、世界大戦を決定的勝利まで遂行しようという全人民的志向は強化したばかりだ。」と書いたということです。

 この新聞記事に対して、フィンランド連隊の兵士委員のデモがおき、これに対処するため、53日、ミリューコフが退陣し、リヴォフ首相、ケレンスキー陸海相からなるブルジョア臨時政府とソビエト執行委員会による第一次連立政府が55日設立されました。リベラル・ブルジョア9人にたいし、ソビエト臨時実行委員の主流メンバー6人も内閣に加えられました。63日には第1回全ロシア・ソビエト大会が開かれ、内容は777人中、エスエル党員285人、メンシェヴィキ248人、ボリシェヴィキは105人という小数派で、しかもソビエト大会は、ボリシェヴィキの行なった「全ての権力をソビエトへ」というスローガンと610日の予定だったデモ行進案を非難し、差し止める決定をします。この時期はやはり過激なボリシェヴィキはまだまだ少数派だったのです。

 新たに陸海相となったケレンスキーは617日ロシア軍に攻撃を命じました。しかし、ドイツ軍の反撃で敗退し、まだ戦争を続ける気の臨時政府に反発し、7月3日、「全ての権力をソビエトへ」のスローガンのもと、アナーキストと民衆の間で7月蜂起と呼ばれる武装デモが発生、これにボリシェヴィキもかかわっていましたが、これは完全に失敗します。ボリシェヴィキの本部は徹底的な手入れを受け、トロッキーは逮捕され、レーニンもドイツのスパイ容疑で逮捕状を出され(ドイツで革命推進の対露膨張工作をおこなっていたパルブスと連絡がありましたから、まんざら嘘でもございません。)、郊外の森に数週間潜伏し、火夫に変装して命からがら機関車でフィンランドへ雲隠れします。さらにドイツ軍の反抗もはじまり、こんどはカデット党員4 人を入閣させる目的でリヴォフ首相が辞任し、ケレンスキー首相兼陸海相、ネクラーソフ副首相の第二次連立政府が誕生しました。

 ところが前線では完全な厭戦気分が広がっており、7月にロシア軍最高司令官に任命されたコルニーロフ(ケレンスキーの計画した総攻撃が失敗し、ガリシアで破綻し突破されそうになった時、戦線を回復した人物です)はなによりもまず軍紀の回復を主張、前線のみならず、後方でも抗命罪に対する死刑を要求します。ケレンスキーはこれを拒否しますが、コルニーロフはカデット党などの保守派に受けがよく、カデット閣僚の突き上げもあり、けっきょくこの要求を飲みました。







ラーヴル・ゲオルギーエヴィッチ・コルニーロフ
Корнилов, Лавр Георгиевич
18701918

日露戦争に従軍、第一次大戦時のロシア軍総司令官
南ロシアで白軍を組織







 これで自信をつけたコルニーロフは、ロシア軍最高司令官の身でありながら、クーデターを起こし、クルイモフ将軍にモスクワ進撃を命じます。ケレンスキーはコルニーロフを解任しますが、カデット閣僚達はこの動きを支持して大臣を辞任し、孤立したケレンスキーは全ロシア・ソビエト中央執行委員を頼りました。そこでボリシェヴィキが中心となった全ロシア・ソビエト中央執行委員は「反革命対抗人民闘争委員会」を設立し、コルニーロフ軍の前進を止め、さらにはボリシェヴィキ工作員の扇動でコルニーロフ軍が内部崩壊を起こしてしまいました。結局クルイモフは兵卒に逮捕されて首都に送られ、ケレンスキーの訊問を受けた後自殺し、コルニーロフは逮捕され、クーデターは失敗に終わります。ボリシェヴィキを押え得た、最後の勢力の消滅とも言われます。

 このクーデター鎮圧で圧倒的な力を示したボリシェヴィキはたちまち勢力を回復、行動を開始し、ペトログラード・ソビエトの投票で信幹部会が選出されましたが、ボリシェヴィキ13、エスエル党6、メンシェヴィキ3と、ここにきてはじめてボリシェヴィキが多数派となり、メンシェヴィキのチヘーゼは失脚し、出所したトロッキーがペトログラード・ソビエト議長になります。ペトログラード・ソビエトは、911日、革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権を要求する決議、つまりはボリシェヴィキ政策そのものの決議を出しました。92日、フィンランドのロシア・ソビエトの合同会議はソビエト政府賛成を決議し、モスクワでは95日、連立政府反対の方針が出、同日シベリア・ソビエト大会もボリシェヴィキの指導に従い、キエフ、カザンなどのソビエトで同様な決議がなされ、ソビエトの声を無視できない空気がかもし出されてきました。

 そこでツェレチェリは、「共和国評議会」を発足させ、この議会に対して責任をもつ内閣および政府の組織を作るよう決定しました。ケレンスキーはこれを受け入れざるを得ず、こうして共和国評議会に対して責任を持つ第三次連立政府が成立しました。


  〜 4. 十月革命勃発ーボリシェヴィキ政権の成立 〜

 ここでボリシェヴィキが多数派になったと判断したレーニンは、臨時政府を武力でもって打倒する考えを固めます。これをうけて、トロッキーは、ペトログラード・ソビエトは反革命からのソビエト防衛という名目で、ボリシェヴィキ武装蜂起のための軍事組織の設立に着手し、1012日、軍事革命委員会を設立しました。そして軍事革命委員は首都の各部隊にコミッサールを派遣し、臨時政府からボリシェヴィキへの寝返りを説得します。トロッキーの精力的な工作で、ボリシェヴィキはつぎつぎと軍事組織の寝返りに成功しましたが、首都防衛の要たるペトロ=パブロフスク要塞の守備隊はどうしてもコミッサールの言うことをききませんでしたから、このときはトロッキーも自ら弁舌をふるって説得に成功、こうして恐ろしいことに、二個連隊を除くペトログラード軍管区司令部の全ての軍事組織を、ケレンスキーの臨時政府から、ボリシェヴィキの指揮下に収めてしまったのです。

 しかし、この軍事蜂起が失敗してしまえば、ボリシェヴィキに対して正真正銘の致命傷となります。しかも、ペトログラードでは革命の時期はまだ熟していないと言う雰囲気が濃厚でしたが、放棄の時期は今をおいてないと確信していたレーニンは変装して自らペトログラードへ乗り込み、1010日、16日、20日と立て続けに中央委員会を開き、他の委員を説得しようとします。

 しかし、やはり慎重派であった、ジノヴィエフ、カーメネフがメンシェヴィキの新聞『ノーヴォエ・ブレーミャ』に、レーニンが秘密裏に進めていた武装蜂起計画を暴露してしまい、なおかつ二人はこの蜂起に反対であるという声明を出したのです。これにたいし当然レーニンは烈火の如く怒り、二人の意見に対する反論を新聞に掲載、二人の除名処分を提案しますが、この場はスターリンの仲裁で事なきを得ます(しかし、この問題は1924年再燃しますが)。

 新たにボリシェヴィキの本部となったスモーリヌィ・インスティートゥート(エカテリーナ2世の創立した貴族の花嫁養成学校)では激論が戦わされ、メンシェヴィキの領袖マルトフは内戦回避の必要を説いて自制を要請(彼の哀しい予想は、後年、また次のページで書く通り別の形で的中します。)、トロッキーはそれに対し反対します。夜遅くにレーニンも到着し、武装決起の断行を迫りました。

 このレーニンの動きに対して、ボリシェヴィキが武装蜂起を行えば、今度こそ息の根を止めようと意気込むケレンスキーが手を回し、このボリシェヴィキの動きに対して反発した(当然ですが)ペトログラード軍管区司令官は、1024日の朝、士官学校の生徒がボリシェヴィキの印刷所を閉鎖します。これに反発したトロッキー率いる軍事委員会は、この攻撃からソビエトを守るためと称して労働者から募った赤衛隊、ソビエト派の守備隊兵士に電話で戦闘待機命令を発しました。

 ここには二つのロシアがいました。一方はやがて消滅する支配階級のロシアであり、他方は最後に実権を奪取する労働者のロシアでした。しかし、この時点では、明日はどうなるのか、双方とも全く見通しは立っていませんでした。その二つのロシアのはざまに、取り残されたロシア…芦田均は、こんな非常時でさえ開催されていたアレクサンドル座の芝居の幕間に、華麗な盛装をした皇帝侍従養成学校生徒の一群が、彼らの座席で起立して、いまは紋章さえももぎ取られた、空席の皇帝観覧席に向かって、昔ながらの優雅な敬礼をするのを目撃したということです…ロマノフのロシアが、ありました。

 25日の午前2時、軍事委員会により武装蜂起が正式に決定され、首都の各拠点を制圧させました。こうして、ペトログラードの中央電信局、電報通信社、鉄道停車場、発電所、国立銀行などを占領し、1025日中には全拠点の制圧に成功しました。臨時政府の閣僚は2000人の兵士とともに冬宮にたてこもります。ボリシェヴィキ陣営にクロンシュタットから2000名の水兵が到着し、日本海海戦で生き残った巡洋艦アウローラ号とペトロ・パヴロフスク要塞から砲撃が始まり、二発の砲弾が冬宮へ命中して降伏の話し合いがつき、1026日午前二時、立てこもっていた閣僚のうち、女装して脱出したケレンスキーを除く全員が逮捕されました。防衛側の臨時政府側の死者が20人、ボリシェヴィキの死者はなし、ほとんど無血開城のようなものでした。

 ボリシェヴィキが政権を掌握した上で1025日第2回全ロシア・ソビエト大会が開かれます。参加したのは、ボリシェヴィキ、左派・中央派エスエル、統一社会民主主義者国際派、メンシェヴィキ国際派、ウクライナ民主党です。大会では、ボリシェヴィキによる革命成就の既成事実を突きつけられたわけですが、ボリシェヴィキに反対するメンシェヴィキ、エスエル党右派は大会をボイコットしました。さて、この大会ではソビエト権力の樹立、憲法制定会議の招集、民族自決、無賠償・無併合・民族自決の講和交渉の即時開始、などを決定します。軍隊の将校選挙制、階級撤廃も決定されました。こうして世界初の共産主義政権、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国(Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика, РСФСР)が誕生したのです。







РСФСР政権の旗






1917年10月開催のある会議




 また、「土地に関する布告」を宣言し、地主地、皇室領地は無償没収(!)し、憲法制定会議が開かれるまで、土地の再分配は農民の自発的な行動にまかされる、と言う趣旨をレーニンは述べます。これにしたがって、この時点では政府の抑止がないまま、農民は地主の土地を勝手に奪い、地主たち本人あるいはその先祖が苦労の末に得た土地が、なんらの補償もなく事実上強奪され、農民に再分配されることになりました。

 しかし1919214日付で、ボリシェヴィキは政府布告で全国の土地を「国の統一ファンド」であると宣言、個人農を過渡的で消滅しつつある形態とし、「大きなソビエト農場、共同体、土地の共同耕作」という主張が前面に打ち出されました。要するに、ボリシェヴィキが新規の土地政策を始めるにあたって農民になじみの深い共同体(ミール)の概念を持ち出すことで、国営農場・集団農場に農民が参加しやすいように取り計らったのでしょう。

 こうして1920年までに3000以上の国営農場が創立されたわけですが、そこでは農民は自己の土地や家畜を持てず、工業労働者と同じいわば「農業プロレタリアート」状態におかれました。これではせっかく農奴解放で自作農となった農民が、地主がボリシェヴィキの土地で農奴に逆戻りしたようなものです。

 話それましたが、さらにこの大会では、憲法制定会議招集までの臨時の労農政府として、ボリシェヴィキにより人民委員会議が提案されました。ところが、この大会に残った左派エスエル(即時憲法制定会議招集を主張していました)にさえ人民会議への入閣を断られましたから、ボリシェヴィキの提案人事は、首班は人民委員会議長レーニン、その他外務人民委員トロッキー、民族問題人民委員スターリン、農務人民委員はボリシェヴィキのミリューチン、といった要員の殆どをボリシェヴィキで固めたものとなりました。これにはボリシェヴィキ以外の党がみな反対しましたが、ボリシェヴィキは賛成多数という数の力で押し切ります。

 ボリシェヴィキのあまりの専決ぶりに、この大会をボイコットした右派エスエルは、ブルジョア党とボリシェヴィキを除いた全党派で結成される「同質社会主義者政府」を作るよう主張し、大会に残った左派エスエルやメンシェヴィキの国際派さえも、ロシア国内各派を集めた「同質民主派権力」を作るよう主張しました。

 各党派の機関紙上で主張されたこれらの反対意見に対し、レーニンは、労農政府に反対する反革命新聞は発禁に処する、との布告を発表することで答えます。この処置にはボリシェヴィキ内部でも、いくらなんでもやりすぎたとのかなりの批判があり、カーメネフらの他党派との妥協をはかろうとする意見もありました。が、レーニンは押し切り、殆ど全ての商業新聞・諸党派機関紙は発禁、あるいは度々の発行停止を受けることとなります。こうして事実上、ボリシェヴィキの『プラヴダ』、ソビエトの『イズヴェスチャ』、左派エスエルの『ノーヴァヤ・ジーズニ』のみが発刊を許されるという状況となりました。ソビエト時代の言論統制の厳しさはこの辺から発動されたのです。このあまりの強引さに、左派エスエルはボリシェヴィキに屈服せざるを得ず、左派エスエル党員7人が人民委員会議にくわわることで、やっとソビエト政権が成立します。







演壇でのレーニン




 さて、冬宮から脱出することに成功したケレンスキーはプスコフの北部方面軍に到着し、ガッチナを攻略、ツァールスコエ・セローに入り第三騎兵軍団とともに首都反攻を計画します。しかし、ペトログラード守備隊兵士、バルト海艦隊水兵、赤衛軍との30日のプルコヴォ丘の戦いに敗れ、さらにペトログラードの士官学校で起こった反乱も市街戦の末に赤衛軍に鎮圧されました。ケレンスキーはロンドンに亡命し、これで、ソビエト政権の内部崩壊の危機は一旦去りました。

 対外的に一応交渉のできる組織を樹立したソビエト政権は、新たに最高司令官に任命されたクルィレンコを通じ、講和交渉にむけた三ヶ月の休戦交渉をドイツに申し入れました。トロッキーは、無賠償・無併合・かつ全ての国家に対して自決権を認める民主主義的な講和の締結を目的とする、前線における即時休戦をドイツ側司令官に提案し、さらに連合国側に対しても、休戦条約交渉に参加することを欲するかどうか提案します。

 これに対しては連合軍側で会議が持たれ、けっきょく「ロンドン議定書に署名もしくはその後に参加した各国は、ロシアがその国民によって承認された正規の政府をもち次第、直ちにロシアと協力して、戦争目的および公正な平和への可能な条件の検討に取りかかる用意がある」とコメントし、ソビエト政権を交渉相手と見なさず、つまりはソビエト政権を承認しませんでした。

 ソビエト政権は改革を進め、19186月にはすべての大企業及び民間鉄道の無償国有化の方針が打ち出され、10月には完了します(製造業の中小企業の国有化は1920年に完了)。銀行の国有化も進められ、国家の債務を破棄する(あのシベリア鉄道などの建設費に使用した膨大なヨーロッパ諸国、フランスの国債などです!)という凄まじい宣言がなされました。文化面では正書法が改革されてヤーチやイ・ス・トーチコイなどが廃止されて現在のロシア語の正書法が出来上がり、191821日を期してユリウス暦が廃止されました。つづり字改革や新暦導入などは、じつにピョートル大帝以来の大変化です。1128日には資本家党のカデットの幹部を逮捕し、解散を命ずる布告を発表しました。

 さらにソビエト政権は、懸案の憲法改定会議の出席者を、カムチャトカから中央アジア、ヨーロッパロシアなど、ほぼロシア全土から11月12日より自由選挙でつのります。得票率は、カデットの二つは4.7%とメンシェビキ2.7%でして、これ以後この二勢力は政権獲得レースから完全に脱落します。ところが、都市部では、ボリシェヴィキの支持率はエスエル党より高いものの、蓋を開けてみるとボリシェヴィキは得票率24%でしたが、エスエル党の得票率は40.4%を越えました。ナロードニキ運動の流れを汲むエスエル党は農村部が支持基盤で、いまだロシアが農業国であり、農村部での人口が多い以上、至極当然な結果です。

 当然ですが、ボリシェヴィキキ内部には、第一党たるエスエル党に妥協すべきだとの声が上がりました。が、レーニンはあくまで憲法会議がソビエト政権とその政策を承認するよう声明を出す腹を固めており、この決定に従わねば会議を解散するとのテーゼを出します。もともと、レーニンは共産社会実現の前段階としての、カウツキーが皮肉った「プロレタリアート独裁」政権樹立を考えており、何をいまさら憲法と言う、独裁政権の足かせにしかなりそうにない、ブルジョア資本主義国家に誕生した制度を導入せねばならないのかと、憲法制定には全然乗り気でなかった模様です。

 さらに、このころ、ポーランド人で、ポーランド・リトアニア統一社会民主党の指導者かつロシア共産党中央委員に任命されていたジェルジンスキーの提案で「反革命サボタージュと戦う全ロシア非常委員会」(いわいるチェー・カーです)が、ペトログラード市のホヴィア街二番地の市庁舎内に設立されます。ジェルジンスキーは当時40歳、レーニンと同い年です。最盛期は9万人の基幹職員を抱え、40万人が運営に関わったといわれる国家保安機関KGBの前身たるЧКですが、設立当初は23人の職員と1人の10代の女性秘書というささやかなものでした。さらに、ЧКの暴走を抑えるため、革命諸派が集まった5人からなる参与会も付属します。このЧКはソビエト初の政治警察でして、これを記念して、かつてソビエト連邦内の各共和国のKGB本部には必ずこの人の銅像が立っておりました。こうして、ボリシェヴィキは独裁革命執行機関としての姿勢を鮮明にし始めます。







フェリックス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキー
Дзержинский, Феликс Эдмундвич
1877−1926

シュタフラの家庭に生まれる
「反革命サボタージュと戦う全ロシア非常委員会(ВЧК)」創立者




 ジェルジンスキーは1877年、リトアニア・ヴィルナ県の地主貴族の家に生まれました。父は大学で数学・物理学科を卒業、ヴィルナのギナジウムの教師だったそうです。ジェルジンスキーは学生時代カトリックを信仰していましたが、弟が革命的な詩を書いたかどでオフラーナに逮捕され、処刑されるのを目の当たりにして神を棄て、革命家に転向したとのことです。

 ジェルジンスキーは街頭演説やパンフレット配布、警察署やオフラーナ支部の襲撃などの活発な革命運動を繰り返し、1897年国家反逆罪で逮捕、シベリアの収容所での重労働5年の刑に処せられました。しかし、仲間の助けで収容所を脱走、ボリシェヴィキのメンバーの大部分が厳しい取り締まりを恐れて国外に亡命する中、彼はロシアに踏みとどまり、以後1917年まで計14年間の服役の服役生活を送りました。

 そんなさなかの1904年、ロシア社会民主労働党第四回大会でレーニンと出会います。レーニンに見いだされた彼は、ほとんどのボリシェヴィキ指導者が当局の取り締まりを逃れて国外へ亡命する中、ロシアにとどまって活発な工作を続けました。ジェルジンスキーは七分袖のコサック・シャツを愛用し、当局の弾圧でついた手首の手錠の傷跡をいつも見せていたということです。

 191815日、懸案の憲法制定会議がタヴリーダ宮開で催されました。第一次連立政府の農相だったチェルノフが議長で会議は進行しますが、しかし、解散させられたカデットの席は空、エスエル党が実権を握り、ボリシェヴィキが何も決められないままであり、この状態に満足できないボリシェヴィキの不穏な空気で、エスエル党左派とボリシェヴィキは退場、残った議員も夜に水兵に解散を命じられて会議は一日で閉会し、翌日人民委員会会議は憲法制定会議の解散を告げます。翌々週人民委員会議は労働者の武装部隊を差し向けて議会を占拠してしまいました。

 ひきつづいて110日から開かれていた第三回全ロシア・ソビエト会議はこの人民委員会議の措置を承認し、さらにあろうことか、ボリシェヴィキ以外の政党を禁止してしまいます。

 かわってソビエト権力の全国化が進められました。全国の兵士、労働者は各地でソビエト権力を宣言し、これはペトログラード・ソビエトの全国展開を意味しましたが、農村部では、ナロードニキの流れを汲み、前々から農村地域に宣伝工作を行なってきたエスエル党の勢力がつよく、県農村ソビエトの実権はエスエル党に握られ、来るべき内戦の予兆が、すでにここに現れていたことをわれわれは看破することができます。

 さて、レーニンはマルクスの『ゴーダ綱領批判」を発展させて以下のテーゼを発表します。


 
独裁とは、直接暴力に立脚し、いかなる法律にも拘束されない権力である。プロレタリアートの革命的独裁は、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によって戦い取られ維持される権力であり、いかなる法律にも拘束されない権力である


 こうしてレーニンは暴力による支配を認めてしまったのでした。個人的な感想としては、おそらくこれがソ連にとって最大の失敗だったと思います。悪から出たものは結局悪に帰し、暴力から出たものは暴力に帰ります。因果応報と言いますか、全うでない行いは、結局は全うでない結果として自身に跳ね返ってくるのです、その結果が約70年後に巡ってきた、共産党政権崩壊時の惨劇でしょう…。ともかく、こうして名実ともに、世界初の共産党政権がロシアに誕生したのでした。


  〜 5. 皇帝一家の処刑ーロマノフ王朝の最後 〜

 都合上、少し話が飛びますが、ここで皇帝一家の最後の述べたいと思います。退位した皇帝の一家は1917年ツァールスコエ・セローに軟禁されます。もちろんペトログラード・ソビエトの過激派の中にはロマノフ一族を処刑するよう主張するものもありましたが、当時の司法相ケレンスキーは、「わたしはロシア革命のマラーにはならない、ロシア革命は復讐を行なわない」と発言し、とりあえずは皇帝一家の安全は確保されます。さきに述べた如く、臨時政府の外相ミリューコフは、皇后アレクサンドラがビクトリア女王の孫娘という縁をつたって、皇帝一家をイギリスに亡命させようとしますが、イギリスに婉曲に断られました。

 さらに第三次臨時内閣で首相となったケレンスキーは、8月、皇帝一家を流刑地トボリスク(奇しくもラスプーチンの生まれた県です)へ送ります。ところが10月革命が起こってボリシェビキが政権を握ると、軟禁されていた総督官舎に高い塀がめぐらされ、1918430日、エカテリンブルクに護送されます。

 そして7月、白軍(ボリシェビキズムに反対するロシア内勢力の総称)と合流したチェコの二個軍団がエカテリンブルクに迫っており、皇帝一家の処置が問題となっていました(実際725日、エカテリンブルクは白軍に占領されます)7月中旬、来るべきものが来、レーニンの命令で皇帝一家は銃殺され、718日、全ロシア・ソビエト執行委員会議長の名で、ニコライ2世の処刑の声明が伝えられました。

 ボリシェヴキは、ロマノフ家を滅亡させるつもりだったのでしょう、皇帝の一族の処刑も進行しており、ニコライ2世の処刑に先立つ6月、譲位を提案されてこれを断った弟のミハイルを銃殺し、7月にはミハイルの子どもエリザヴェータ大公妃、セルゲイ・ミハロヴィッチ大公、コンスタンチン大公を殺害します。19191月にはニコライ・ミハイロヴィチ大公を含む四人の大公がペトロハバロフスク要塞で処刑されました。皇帝一家以外で殺害された親族は17人に及びます。

 ロマノフ家で生き残れたのは、数人で、ニコライ2世の母、つまりはデンマーク皇女だったマリアと、マリアの娘クセニアはイギリスの軍艦でデンマークへ逃れます。ロマノフ王朝初代皇帝だったミハイル・ロマノフが帝位への招聘を受けたイパチェフ修道院も閉鎖されました。

 確かにニコライ2世は政治的判断を誤ったこともあるし、有能な君主とはいえなかった部分もあるかもしれません。ラスプーチンを近づけ、自分より優秀な人物が嫌いだったのか、ウィッテやストルイピンといった有能な宰相となぜか衝突し(ウィッテは、自分が治める国に膨大な借金をこさえ、借金相手のフランスに外交的に従属せざるを得なくなった原因を作った人物ですし、ストルイピンの少数民族弾圧政策も、自らがロシアの少数民族ドイツ系の血を多分に引くロマノフ家の出身者としては気に障ったという面はあるでしょう)、ロシア軍に総動員令を発し、ドイツに宣戦布告をさせ、皇帝専制の不可侵を盲信し、自己の無限の権力を削るいかなる試みにも全力で抵抗し、結局革命を成功させてしまったことなどはその最たる例かもしれません。しかし、ロマノフ朝の崩壊と皇帝一家の処刑は、何も彼一人の失徳というものではなく、300年になんなんとするロマノフ朝のたまりにたまったほころびが、彼の時代に炸裂してしまったのが最大の原因です。

 本人の資質ももちろんですが、良い時代に生まれ合わせたため、先代の苦労の果実を受け取ることとなり、名君と呼ばれるようになった君主達がいます。ロマノフ王朝に限って言えばエカテリーナ2世などはその最たる例でしょう。しかし、いい時代に生まれ合わせたためにいい思いをした人がいれば、悪い時代に生まれてしまったため、先代のつもりつもった負債を一身に背負わさせられ、痛ましい最期を遂げねばならなかった皇帝もいるわけです。それがニコライ2世です。




http://www.educ.cc.keio.ac.jp/~te04811/semya%20nikoraja.jpg

列聖されたニコライ2世と家族の肖像

ただし、皇后致命女の息子(現代正書法に直せば
сын царственной мученицы)
とイコンには書いてありますので、
アレクセイがメインのイコンだと思われます




 高貴な身分に生まれながらも、生まれ合わせた時代が悪かったため、本人の失徳とは別のところで苦労を重ね、一家と共に悲劇的な最期を遂げねばならなかったニコライ2世を後世の人はやはり痛ましいと思ったのでしょう。決してとどまることのない時代の流れの中で、ロマノフ王朝と同じくボリシェビキズムも滅び、ロマノフ王朝をかなり自由に評価できるようになった今、ニコライ2世はその家族とともにロシア正教会から、「ロシアの新致命者および表信者集団の、苦難に耐えた者」、страстотерпец
в сонме новомучеников и исповедников Российских、(新致命者とは、革命後の信仰告白や堅持による殉教者に与えられる聖人の称号です。表信者、Исповедник、は信仰に対する迫害を生き延びた人に対して与えられる聖人の称号です。この時点ではロシア正教会内部で皇帝一家の死亡に関して確信が取れていない、あるいは本当にアナスタシアが生きているのかもしれない、と思う人がいることに対する配慮の表れでしょうか。)として2000年8月20日にロシア正教会により家族とともに列聖されました。ロシア在外正教会は1981年にニコライ2世を致命者として列聖しております。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『よみがえるロマノフ家』
    土肥恒之 著
     講談社

   ・『毒ガスと科学者』
    宮田親平 著
     光人社

   ・『ロシア革命の現場証人』
     加瀬俊一 著
     新潮選書

   ・『世界の歴史21 帝国主義の開幕』
    中山治一 責任編集
    河出書房新社

   ・『世界の歴史 22 ロシアの革命』
    松田道雄 著
    河出書房新社

   ・『世界の歴史13 帝国主義の時代』
    中山治一 責任編集
    中公文庫

   ・『歴史読本ワールド 2月号 特集 ロシア革命の謎』
    新人物往来社

   ・『ロシア史 2』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー