ロマノフ王朝(14

〜〜 1905年革命鎮圧とストルイピンの改革 〜〜



ピョートル・アルカージィヴィチ・ストルイピン
/ Столыпин, Перт Аркадьевич(1862-1911

第二・第三ドゥーマ期の内相兼外相

ロマノフ王朝最後の改革を放つ

 


Российская

 
 

История


 

走っていってしまいますと、日露戦争はフランスという止め男がいてくれたため、なんとかロシア帝国が折れ、講和と相成りました。この後の第一次世界大戦でも、自国政府が革命で崩壊するまで戦争を続けたロシア帝国のことですから、フランスがいなければ、確実にこのまま日露戦争と続行したと推測され、総力戦となると、その国力はロシア帝国と日本では、とうてい日本はロシアに及びません。先のプロイセン宰相ビスマルクによって完全包囲されていたフランスが、巻き返しを図っているさなかという国際政治環境に救われ、明治日本は命拾いしました面もございます。

 また、日露戦争でのロシアの緒戦の敗北はロシア信用に大きな打撃を与え、ロシア証券相場の大幅下落を招きました。これは、ロシア債権を大量に抱えるフランス信用への打撃となり、大資本国家であるフランスの相場が万一崩れると、ヨーロッパの金融秩序全体を揺るがしかねません。ロシア発世界恐慌の可能性をつむためにも、ヨーロッパの主要国は戦争終結で足並みをそろえたのです。

 さて、ロシア政府としても、戦争を終結させたことで革命勢力に対し本腰で望むことが可能になり、1905年革命を完全に鎮圧することに成功します。こうして手に入れた内外の安定状況を背景に、ストルイピンによるロマノフ王朝最後の改革が行なわれます。

 その一方で、産業革命がまだ終了していないロシア帝国は、工業化に要する頭金をフランス政府から借り入れ、さらには戦争費用までフランスから借り、帝国はますますフランスに頭が上がらない状態となります。これでは最悪、オスマン・トルコ帝国が、フランスが貸し付けた50億フランが返済不能となり、1881年、列強が中心となって結成された「トルコ負債管理会」に、オスマン・トルコ帝国の財政がこの管理委員会に管理され、タバコの関税など、トルコの収入財源がヨーロッパの金融資本家に吸収されたのと同じ運命をたどりかねません。

 しかし、ロシア帝国はさすがにオスマン・トルコ帝国よりは国力が上でしたから、このような惨状は訪れませんでしたが、代わりにフランスが望んだのは、フランスの宿敵ドイツとの手切れがタイアップとなったフランスとの同盟でした。ビスマルクの手腕によってヨーロッパから完全孤立の状態を強いられていたフランスですが、産業革命を成立させ、成熟した工業国となっており、工業製品の輸出で蓄えた余剰資本をもとに、資本輸出国となっておりました。イギリスと比べ、海外植民地が少なく、その分海外植民地を維持する経費のかからなかったフランスは、その資本を外交政策に利用します。つまりは融資をその足がかりにしたフランス中心の大同盟網の構築です。

 フランスへの借款のため、外交政策もフランスの意向を無視できず、完全なる自主外交が不可能となったロシア帝国は、事実上のフランスとドイツの激突、第一次世界大戦に否応なしに巻き込まれていくことになります。



      〜 1. 1905年革命ーその萌芽 〜

 血の日曜日事件は国民の各階層に深刻な影響を与え、革命運動が一気に進展していくことになりました。帝政打倒を目指す革命運動の影響を受けたまず受けたのが、服属され、ロシア帝国内部に組み込まれた異民族の住む地です。これらの地域ではロシア語教育およびロシア語の使用の強制やロシア正教の活発な布教がなされており、民族感情が逆なでされていましたから、ロシア政府の政策がまずくなると、まずこれらの地域から不満が爆発したのです。





     この章に登場するロマノフ一族の系譜


 ―アレクサンドル3
      |
      ├――ニコライ2
           |    |
           |    ├―――オリガ
           |    |     |
           |    |     ├―タチヤーナ
           |    |    |
           |    |    ├―マリア
           |    |    |
           |    |    ├―アナスタシア
           |    |    |
           |    |    └―アレクセイ
           |    |
           | アレクサンドラ
           |
           └―セルゲイ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者




 まず、グルジアの旧グーリア公国のグーリア地方は1903年に租税支払いを停止し、皇帝の肖像画を焼却して皇帝への忠誠を否定するなどして事実上の自治に突入していましたが、血の日曜日以降この運動がグルジア全土に波及し、ロシア政府はグルジアに戒厳令をしき、アリハノフ=アヴァルスキー将軍を派遣しますが、抵抗のあまりの激しさに退却します。

 バルト三国でも諸都市で抗議のストライキが発生し、もともとリヴォニア騎士団の支配地だったラトヴィアの中心都市リガでは労働者が警察と衝突し、70人が死亡し、都市の騒乱が農村にまで波及し、農民が納税を拒否してドイツ系貴族の屋敷を襲撃し、貴族側が雇った兵士と戦闘になるなど、ほとんど内乱状態のような7月ゼネストが発生しました。

 さらにはポーランドでも暴動が発生し、ワルシャワやウッチでストライキが行なわれ、戦争反対や専制打倒などの要求が出され、警官隊では手におえなくなったロシア側は軍を出動させ、市民に発砲し64人が死亡、力でもって暴動を鎮圧します。その後ワルシャワ大学にポーランド語講座の設置を認めるなど、ロシア帝国は譲歩を認めますが、その後も騒ぎはくすぶります。

 政府発表では死者98人、負傷者333人(死者1000人程度、負傷者4000人程度という説があります)を出し、ロシア帝国を震撼させた血の日曜日事件の責任をとって内相のスヴャトポルク=ミルスキー公爵、特別市長官フロンが辞任し、ブルイギンが内相となり、ペテルブルクには総督制が導入され、前警視総監ドミートリ・トレポフが総督に就任します。事態打開のため、ニコライ2世は三つの勅書を作成しました。

 一つは忠良なる臣民に対し、祖国に不適格な体制を持ち込もうとする革命家と外敵を破ることで、専制権力への協力を呼びかけたもの。二つ目は国家制度の改善と人民福祉の改良に関する検討を行なうよう元老院に命じたもの。三つ目は内相ブルイギンに宛てたもので、人民の信頼を得、人民に選出された人物を立法案の討議に参加させるために特別審議会を設けることを命じたものです。これは、国家ドゥーマ(代議院)の設置が現実化することを示したもので、これで一応国民の不満は沈静化します。

 ちなみにブルイギン特別審議会のメンバーは、改革に対し特に意見のないブルイギンが議長、ウィッテが推薦した(つまり自分の子分)元老院議員でのち内務次官となる官僚の大物クルィジャノフ、ウィッテの協力者の大蔵大臣官房長プチーロフ、政治家にはさまれ発言力の薄い憲法学者のイヴァノフスキー、国民受けはいいが宮廷にコネが薄くこれまた発言力の薄いゼムストヴォー運動右派のサマーリンなどです。つまりウィッテは引退した後も微妙にロシア政界に影響力を保とうとしていたわけです。


  〜 2. 日露戦争の進捗ー奉天会戦、ツシマ 〜

 さて、旅順を陥落させた日本軍は乃木希典司令官率いる第三軍から第十一師団を引き抜き、これに後備第一師団を加えて川村影明大将を司令官とする鴨緑江軍を編成し、韓国駐箚軍司令部付属とし、実質的に大本営直属の形とします。大本営としてはこの鴨緑江軍をロシア軍の左翼に進出させて牽制しつつ韓国の防備をねらい、さらにはウラジオストックを占領したいとの目論見があったということです。

 ところがこれに満州軍総司令部が反対し、鴨緑江軍の展開予定地は山岳地帯であり活発な動きがとれず、兵力不足の日本軍としては次の戦略目標奉天に集中すべきであると主張し、結局川村影明大将は満州軍児玉総参謀の指揮下に入るということで決着がつき、満州軍は出来る限り早く奉天会戦に参加するよう手配しました。

 この時点でロシア軍は増強され、三軍に編成されており、その陣容は、第一軍がリネヴィッチ大将、第二軍がグリッペンベルク大将、第三軍がカウリバルス大将で、クロパトキンは極東陸海軍総司令官、というものでした。さて、ロシア軍も冬越しをするものと考えて、積雪厳寒期の冬営に入っていた日本軍ですが、これは誤算でした。

 この黒溝台の戦いは、第二軍のグリッペンベルクが日本軍の最左翼の奥安鞏司令官の第二軍に攻撃を仕掛けてはじまりましたが、日本側は最初は威力偵察と踏んでいたのですが、ロシアの第二軍の攻撃であることがわかります。幸いにもロシア側の第一軍、第三軍は、この攻撃に加わらず、次々と戦力を逐次投入することでなんとか第二軍の攻撃を撃退しました。

 ロシア軍の戦意が高いことを知った日本軍は早々に行動を起こす必要があると判断し、いよいよ奉天に対する総攻撃を決意します。作戦プランでは、鴨緑軍が突出してロシア軍をひきつけ、第三軍が大きく左旋回して敵を包囲しようとするものです。しかし、私は指揮などとったことはありませんが、直感的にこのプランは普通は実現不可です。まず、日本軍は25万人、ロシア軍は32万人でそもそも包囲しようという側が劣勢な上に、包囲殲滅作戦において、いわば包囲の蓋を閉じるための主力となる部隊(この場合第三軍)は相当な機動性が要求されます。ローマ軍相手に連続4回の完勝を納めたハンニバルの包囲殲滅作戦においても、包囲の輪をとじる要の役目は機動力に優れたヌミディア騎兵でした。

 その辺はやはり日本軍も考慮していたと見えて、第一軍、第二軍、第四軍による総攻撃で、第三軍の動きをカモフラージュし、それによって基本的に歩兵集団で動きの遅い第三軍の移動をロシア側に悟られないうちに終了する予定であり、かつ第三軍の最左翼、もっとも動かねばならないマラソントラックのアウトコースの位置にあたる部分に日本唯一の騎兵集団秋山支隊を配置しています。しかし、普通はロシア軍もおいそれとは包囲されまいと打って出てさんざん抵抗しますから、するともともと第三軍は機動力が足りなさすぎですから、包囲をはばまれます。が、ロシア軍が撤退を重ねたため、うまく包囲の輪が縮まりました。

 さて、31日をもって日本軍の総攻撃が始まりましたが、蓋を開けてみると、ロシア軍に阻まれて鴨緑軍がまったく前進できず、自軍より20%近く優勢な敵を前にしているので当たり前の結果ですが、第一軍、第二軍、第四軍も膠着状態、むしろ第三軍の前進が早すぎて返って孤立する恐れが出てきましたので、交戦中の第二軍を旋回させて、ロシア軍の左翼をふさぎ、第三軍でもってロシア軍の後方に蓋をしようとします。

 しかし交戦中の軍隊の陣営を整え整然と移動できたのは、世界の戦史に残る稀代の名将、スキピオ・アフリカヌスがザマの戦いの時成功した例があるくらいなもので、しかも当時ハンニバル軍とローマ軍合わせても10万人に達しない数でしたが、今回は両軍合わせると50万人に達そうという勢いです。当然第二軍の行動は混乱を巻き起こします。

 33日、ロシア軍は撤退を始め、第一軍は追撃を開始しましたが補足できず、ロシア軍の退路を断とうとした第二軍、第三軍は退路を確保しようとするロシア軍の逆襲にあい、特に後備第一旅団がクロパトキン指揮下の総予備軍の攻撃をうけ、殆ど全滅状態に陥るなどの損害を蒙ります。第二軍、第四軍は奉天を占領し、第一軍は右翼から、第三軍も左翼から包囲の輪を縮め、あと20キロで袋の口がとじるところまで行きますが、結局ロシア軍の撤退が成功し、ロシア軍主力部隊は30分おきにやってくる貨車を使って整然と退却していきました。

 さて、大本営では長岡参謀次長が今後の作戦計画を立案し、首相、陸相の賛同を得て山縣参謀総長に提出します。内容は、防備に適した鉄嶺駅を占領し、それ以降は前進を停止すること。ウラジオストック方面を占領すること。サハリン島を占領すること。この三つです。兵、将校、物資のいずれをとってもこれ以上の補給は不可能になっていた日本にはこれが精一杯の進出だったのです。

 ここで、講和交渉が動き始めます。奉天会戦の結果にもっとも敏感に反応したのは、日本でもなくロシアでもなく、大量にロシアにお金を貸し付けているフランスでした。ロシアは戦費調達のため、ペテルブルクにおいてフランスの金融業者を集め、パリでのロシア起債の交渉をしており、ほぼ話がまとまりかけていたのですが、奉天会戦の結果が伝わるとフランス政府は、ロシア公債発行引き受けの無期限延期を一方的に宣言します。

 そして日本に対し、フランス公使アルマンが「日本政府は賠償金なしの講和も考えている」という耳寄りな話を聞きつけ、フランス共和国外相デルカッセにこの話を伝え、デルカッセ外相みずからフランス日本公使本野一郎に接触を求め、講和の仲介を買ってきました。領土の不割譲、無賠償を条件とする、初の第三国による講和斡旋申し込みだったわけですが、最初から特定の留保がついている講和斡旋は認めがたいと日本からは蹴られてしまいます。まあ、いっとう最初からこんな信じがたい譲歩条件が明示されている交渉なんぞ始めたら、一体どこまで譲歩すればいいものやらわかったものではありませんので、当然といえば当然です。

 ところがフランスは民間の方からも講和斡旋の手を回しており、当時日本政府の外債募集を殆ど一人でやっていた「日本帝国政府特派財務委員」の肩書きを持つ高橋是清のもとへ、フランス大蔵大臣ルーヴィエの密命を受けた、パリ株式取引所仲買委員(フランス政府の任命する70人余りの官設仲買人の長)ヴェルヌイユから面談の申し込みがありました。これは、フランス政府としては公には口が裂けてもいえないことを、政府が任命したとはいえ、仲買人を通じて言わせることで、あくまで「仲買人の談話」という形でフランス政府の本音を吐露したもので、『高梁是清自伝』によると、328日午後4時、高梁是清は、仲介役のパンミュール・ゴールドン商会のコッホの事務所でヴェルヌイユと会見しました。少々長いので、内容を要約させていただきますと…。

 ・当時の日本円にして70億円のお金をロシア公債として購入している(つまりは、ロシアに貸している)フランスとしては日露の戦争がいつまでも続くのは心配である(貸したお金が産業発展に使われるならともかく、戦費として浪費されるなら利子どころが元金すら返ってくるかどうか危うくて心配だ。ロシア公債の暴落も不安だ。)。

 ・もし日本が、ロシアの受け入れ易い賠償金なしの講和で満足するなら、フランスは講和を斡旋する(もし日本が賠償金をとるなら、戦争で日本同様お金のないロシアはフランスからの借金で日本に賠償金を払うだろう。すると、ロシアに代わってフランスがお金を立て替えて日本に賠償金を払ってやるという形になり、なんのための融資なのかわけがわからなくなる。)。

 ・日本が賠償金をとらないなら、その代わり、日本がアメリカ・イギリスに返さねばならない日本国債の分を、フランスがパリ金融市場を開放することで、日本政府の公債募集という形で低金利で貸し付ける、つまり事実上の借り換えで、日本の借金をフランスの負担で軽くするのでこれで納得してくれ。

 ・ロシアはこの一戦で敗れても、極東に置ける権益が諦められないこともあり、再度戦争を起こすことも考えられる。したがって、ここで日本が賠償金なしの講和を受け入れフランスで起債してくれるなら、ロシアと日本、上得意客同士喧嘩しないでくださいよ、と仲介を買って出るのでぜひ講和してくれ。

 列強の一つドイツも、ロシアの革命運動の進展が、フランス革命時の嵐のように飛び火し、近隣諸国にとてつもない被害を与えることを懸念し、駐米ドイツ大使は、駐米フランス大使とともにアメリカのセオドア・ルーズベルトを尋ね、講和の可能性を尋ねました。前にも書いたごとく、1903年に、日本は清に対し、満州の大東溝および奉天の開港を約した日清追加通商条約をむすび、日本と歩調を合わせてまったく同じ日に米清追加通商条約を結んだアメリカと、ロシアに対する門戸解放路線を主張することでアメリカの支持も受けていました。

 これまでヨーロッパ世界からはじかれ、なんとか世界を仕切る列強の仲間入りをしたいと、世界情勢に対して自国がイニシアティブを取れる機会を探っていたアメリカにとって、極東におけるロシアと日本の勢力争いの調整は願ってもないチャンスですから、セオドア・ルーズベルトも乗り気で駐米日本公使を通じて講和条件を調整していました。解任されたウィッテも、戦争の継続による国家財政破綻とそれがもたらす恐ろしい結果を憂慮し、講和とドゥーマの創立を具申する上奏文を提出していました。このドゥーマの設立のためのブルイギン特別審議会が微妙にウィッテ派の人物で固められ、ウィッテがロシア政界に微妙に影響力を保とうとしたのは前に述べたとおりです。

 日本外相小村寿太郎はかなり粘りましたが、やはり賠償金、領土割譲は絶対条件からはずすことが決まり、いよいよあとはロシア宮廷からの講和の提案を待つだけと成ります。

 ところがロシア宮廷はロジェストヴェンスキー率いる太平洋第二艦隊に望みをかけておりました。ロシア宮廷はネボガトフ少将率いる旧式の艦隊を派遣し、この艦隊と合流するため足並みをそろえるべく、マダガスカル島のシノペに二ヶ月近く滞在していましたが、この艦隊の出発により、やっと行動を開始できました。二つの艦隊はインドシナのカムラン湾(のちにソ連の軍港となり、東南アジア地域へのソ連の基点となります)で合流します。

 旅順は陥落し、太平洋第一艦隊は壊滅した後ですのでウラジオストックを目指して北上することとなり、太平洋側を通るか日本海側を通るか意見が分かれましたが、最短コースを選ぶことに決定します。

 日本側連合艦隊は旅循陥落後、艦艇の修理と訓練に励みつつ朝鮮半島南岸の鎮海湾に陣取っていましたが、527日午後445分、五島列島沖を照会中の仮装巡洋艦信濃丸によりロシア艦隊発見の報を受け取ると、鎮海湾から出撃し、527日午後1時40分ごろ太平洋第二艦隊を発見、午後210分ごろ砲撃を開始しました。

 結果は連合艦隊の大勝利で、ロシア側は38隻の艦艇のうち、ウラジオストック港にたどり着けたのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、運送船一隻だけでした。残りは撃沈、捕獲、中立国の港に逃げ込んで武装解除です。日本側で撃沈された舟艇は水雷艇4隻だけでした。日本海軍は、このツシマ(日本海海戦)での勝利が脳裏に焼きついてはなれず、この後巨艦大砲主義に陥り、日本海軍の消滅までこの戦術思想から抜け出れなくなった人も出ました。








装甲巡洋艦パビエーダの碇揚頭

呉市海事歴史科学館蔵
商用目的の利用は不可とのことです。





パビエーダ(勝利)号(броненосец победа)

броненосец(ブロネノーシェッツ)とはアルマジロのこと、
転じて、意味を生かした訳なら装甲巡洋艦、のことです。

軍事のことはよくわかりませんが、ロシア語でも戦艦は
「主力艦」(линкор、линейный корабль
つまり直訳は第一線艦)と申しますので
せっかくなのでброненосецは
装甲巡洋艦と言ったほうが語感を生かせると思います。





 このツシマでの敗戦で、ロシア軍内部にも動揺が走り、黒海艦隊の装甲巡洋艦(броненосец)ポチョムキン・タヴリーチェスキー公号で反乱が起こりました。赤旗を掲げ、艦隊の指揮下を離脱し、乗組員全員が指揮をとるポチョムキン号に対し、12隻からなる黒海艦隊は拿捕または撃沈を命じられましたが、黒海艦隊内部にもポチョムキン号の行動に内心同調するものが多く、3隻などはポチョムキン号に万歳を叫ぶ始末で結局追撃が出来ず、反乱11日目には石炭と食料が尽きたポチョムキン号はルーマニアのコンスタンツァ港に入り武装解除されました。恐ろしいことに、革命的な風潮がロシア軍内部にもひろまり始めていたのです。








装甲巡洋艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー号





  〜 3. ポーツマス講和会議ーフランスの底意 〜

 ここに講和の期は熟し、ロシアよりもはるかに講和が必要な立場にあり、自分から講和を申し出ればどれだけ厳しい条件を提示されるかわからない日本は、ルーズベルトに対し、小村寿太郎外相は駐米公使に「直接且全然一己ノ発意二依リ」両国間の講和を取り持ってもらえるよう要求、ルーズベルトはこれを了承し、アメリカのポーツマスで交渉が行なわれることとなりました。また、ロシア側の領土に一歩も踏み込んでいないのに講和という話を持ち出すのはロシアとしても受けいれがたいと踏んだ日本は、講和交渉の直前、ほとんど守備隊のいなかったサハリン島を731日に占領します。

 日本側の全権は小村寿太郎外相、ロシア側は最古参外交官で駐仏大使のネリドフが主席全権となりました。が、ロシアを引っ込ませるために日英同盟を結んだイギリス、貸した金の返済が心配かつある策を秘めて講和を強く望むフランス、この講和をまとめることで極東の安定化に貢献し、世界情勢への存在感を示してヨーロッパ国際政治に割り込みたいアメリカ、強国の流れをみて、長いものには巻かれろ、1905年革命の進展を見て温和な講和を望むとロシア皇帝に書簡を送り、アメリカの決定に黙従的に従うと駐米大使を通じて伝えてきたドイツ…。

 つまりは世界の強国の殆どが講和、しかもかなり日本よりの講和をのぞんで圧力をかけており、ロシアに不利な講和が確実に結ばれそうな状況の中、やばい条約を結んで自分のキャリアに傷をつけては損だと思ったか、ネリドフは健康上の理由で主席全権を辞退し、ムラヴィヨフも嫌、1899年から1903年までロシア駐日大使をやり、1906年には外相となる大物イズヴォリスキーも断りを入れ、けっきょく貧乏くじを曳かされたのはシベリア鉄道着工時とまったく同じパターンですが、この戦争に批判的だったウィッテでした。

 この交渉で、日本の朝鮮半島支配の確認、ハルピン=旅順間のシベリア鉄道の譲渡、ロシア軍の満州撤退などが決められ、ロシアは完全に極東から締め出されてしまいました。これで、人口・資源共に豊富な中国極東地域に権益を築き、シベリア鉄道を介してヨーロッパロシア・極東間の貿易を進行させ、貨物料などでシベリア鉄道建設費およびフランスへのロシア国債返還を考えていたロシア政府の計画は完全に暗礁に乗り上げたことになります、一体どうやって借金を返すのでしょうか。

 ロシア側はフランスへの借金で首が回らない状態ですからウィッテは、賠償金はあくまで突っぱね、ただ、領土に関してはウィッテが持ち出したサハリン島の南北折半で話をまとめます。この講和は結局クリミア戦争ののちに結ばれたパリ条約と酷似しています、つまり、利害関係を持つ周辺各国に周到な外交戦略をしなかったがため、各国の圧力により結局予定進出先から追い出されてしまったパターンです。

 当初から三国干渉などの周辺各国と歩調をあわせた慎重な進出を望みながらも、横から軍部と宮廷の暴走による周囲の反発を買う進出が行なわれ、貴重な市場に普通の商売には完全にマイナスな戦争まで巻き起こされ、周辺各国の圧力で市場から結局締め出されてしまい、しかもそれが自分の預かり知らぬところで起こったのに尻拭いは自分という羽目に立たされたウィッテの心中は推し量って余りあります。ただし、賠償金なしの講和は決裂不可避と思っていただけに、日本側がロシア側の回答を受諾するとの報告を受けた時、ウィッテは非常に喜び「平和だ、日本側は全部譲歩した!」と随員に叫んだといわれます。1905823(ユリウス暦)、ポーツマス条約が調印されました。

 ですから、ロシア帝国側はできることならまだまだ戦争を続行したかったわけで、日露戦争の終結にもっとも力があったのは、日本の努力ももちろんあったのですが、それよりなによりフランスを中心とする国際情勢(当時の日本の外務省がその情勢まで読みきって戦端を開いたのなら、恐るべき慧眼ですが)であったといわざるを得ません。日本側が心の底では何よりも望んだであろう賠償金つきの講和が、日本の意思に反し結局達成できなかったのが、この講和に対する日本側のイニシアティヴの欠如、つまりはお膳立てされた講和であって、日本が自らの努力と力のみで勝ち取った講和ではないということを如実に示しています。しかし、当時の日露両国の国力差を考えれば、凄まじい善戦であったのは間違いありません。

 しかし、この講和を仔細に眺めてみますと実に良くできたものであることが言えます。まず、ロシア帝国ですが、帝国の威信もありますので、できることなら小国日本と講和などしたくはありませんが、現時点では劣勢なのと、フランスの保障により賠償金抜きという、ありえない講和条件により、大国ロシアの面目を立て、なおかつ借金で首が回らない状態のロシアを実際に大助かりさせることによってこの講和条約を受け入れる気にさせています。さらに、この講和が成立した暁には、フランスがロシアに新たな借款を約束するというおまけもついていました。

 日本にとっては、心の底から望んでいながら、ヨーロッパの大国の介入がなければ絶対にロシアが飲まないであろう講和が実際に進むことで万々歳です。しかも、戦費調達のため英米に買ってもらった日本の債権も、フランスが引き取り、なおかつフランスの負担で利子を下げてもらうことで、賠償金がとれなかったといっても、実質上とるものは取ったのと同じことなので、面子はつぶしたものの、実利はとった日本もやはり講和に同意しました。

 しかも、この講和を表向き斡旋したのはアメリカで、この戦争の調停役を買ってでることで、ヨーロッパからはじかれ、国際情勢への影響力を増大させようとするアメリカにも願ってもない話です。するとフランスの利益は一体どこにあるのでしょうか。身銭を切ってまでロシアと日本が講和に臨めるようなお膳立てを整え、しかも平和の仲介役として駐米ドイツ大使とともにアメリカを前面に押し出し黒子に徹したため、この講和会議での真の功労者たるフランスの姿はどこにも見えないことになります。

 ところがまさにこの、「正直な仲買人」的やり方こそ、まさにあの鉄血宰相ビスマルクが全盛期にヨーロッパに仕掛けたやりかたです。まずは自分に全く利益にならなくても周辺各国の利害調整約を買って出ることで会議の主導権をにぎり、なおかつ非営利で調停を買って出たことにより勝ち得た周辺各国との信頼関係をてこに、それらの周辺各国との間に同盟を構築し、さらには自分がその同盟網の盟主となってしまう。ベルリン会談でビスマルクが各国間の利害を調整し、返す刀で大同盟網を作り上げて自分がその盟主に収まり、フランスを徹底孤立させたのはまさにこのやり方でした。後に詳しく述べますが、フランスは講和成立で得た信頼とその潤沢な資金を媒介に、まずはフランスが日本と協商を結び、さらに日本とロシアに協商を結ばせ、最終的にイギリスとロシアに協商を結ばせることで極東日本を加えたヨーロッパにおける英仏露のドイツ大包囲網を作り上げます。

 フランスはこのビスマルクのやり方に更にひとひねりくわえ、自ら会議を主催したビスマルクとは異なり、アメリカを講和仲介の前面に押し出すことでフランスの影を消し去り、フランスの意図を見抜けばすぐさま妨害を加えてくること必定のドイツ外務省の目を欺いたのです。前世紀、ドイツにより徹底的にヨーロッパから孤立させられたフランスの、あざやかなしっぺ返しでした。山東半島に利権を持つものの、極東の権益をそれほど重視していなかったドイツは、この極東でのフランスの動きを見抜けなかったのでしょうか。しかし、極東での紛争が、のちのヨーロッパでの大勢力編成にダイレクトにつながってくるとは、ドイツも予想できたでしょうか、ともかく、ヨーロッパ勢力の伸張で世界が一つにつながり、地球の裏側で起きたことが自国に跳ね返ってくるグローバル化社会の萌芽をこの時代にみることが出来ます。

 このように、列強本国政府と老練な外交官が英知の限りを尽くしてしのぎを削る帝国主義の外交舞台に於いて、ロシアも、日本もただただ脇役に甘んじるよりほかはありませんでした。


     〜 4. 1905年革命の進展と鎮圧 〜

 こうして日露戦争は終わりましたが、革命運動は進展をつづけ、919日にはモスクワでの印刷工の大ストライキが警官隊と衝突し、103日にはサンクトペテルブルクでも印刷工労働組合によるストライキが発生、10月7日には物流の要である鉄道で、エスエル党の影響を受けて発足した全露鉄道同盟によるストライキが発生します。この動きは全業種に伝わり、電信・電話、郵便、ガス灯などがストップするゼネストに発展、10月ゼネストとよばれます。ちなみに、ボリシェビキはエリート革命家による武装蜂起のみを考えており、民衆の自然発生的な運動に巻き込まれるのは避けたい、エスエル党も基本的にはまだ様子見をしていました。メンシェビキは、この民衆の自然蜂起には参加するが、ブルジョア革命が起こる以前なので、労働者が政権を取るには気乗り薄、といった体でした。

 1013日、サンクトペテルブルクにメンシェビキのズボロフスキーが議長となった初のソビエトが誕生し、第一回目の会合を開きます。のちにこれはサンクトペテルブルク労働者代表ソビエトに発展、50人からなる執行部を創立し、ソビエト内部の新聞「イズヴェスチャ」を発行しました。周旋したのは亡命先から急ぎ帰国した当時26歳のトロツキーで、事実上のサンクトペテルブルク・ソビエトの議長でした。似たような農民ソビエト、兵士ソビエトなどが各地でおおよそ80近く結成され、このソビエトがジェネラル・ストライクを指導したのです。

 当然このような有様では首都の治安は極度に悪化、皇帝一家がいつでもデンマークに亡命できるよう駆逐艦が待機しており、皇太后が、ニコライ2世にこの難局を切り抜けられるのはウィッテしかいないと進言、自分より有能な人物がきらいという組織の長としてきわめてまずい欠点を持つニコライ2世もやむなくウィッテを登用します。

 交渉を終えて帰国し、賠償金なしという前代未聞の講和をとりまとめ、同時にフランスからの借款を成功させ、そのねぎらいから伯爵に任命され、大臣委員会議長となったウィッテはロシア帝国の混乱を見、ニコライ2世に打開策を上奏します。一つは、市民の自由、弾圧廃止、内閣制度確立などの改革を行なうか、もう一つはウルトラ独裁者を任命し、「弾は惜しむな」と語ったとされるペテルブルク総督トレポフらを含む最強硬路線を貫徹し、実力で運動を叩き潰すかです。ウィッテは最初の案を上策としました。

 結局ニコライ2世は改革の案を受け入れ、十月十七日詔書を発します。これは、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由、二院制のドゥーマ(議会)設置と、ドゥーマ選挙の実施と普通選挙法の制定を示したものです。この結果に大衆は満足し革命運動は下火となりました。そして、1020日、西欧風でニコライ2世などから煙たがられてはおりましたが、折り紙つきの実力者であるウィッテに組閣を命じ、ウィッテ内閣が誕生します。1030日には大赦が発表され、マルトフ、レーニン、ザスーリチがロシアに帰国しました。

 さて、ドゥーマ選挙実施を前にロシアに政党が生まれました。その中でも大きな党は、「ゼムストヴォ立憲派同盟」と「解放同盟」が合同してモスクワで結党大会を開いて誕生した、立憲議会君主制、ストライキ・団体交渉権の確立を目指す「立憲民主党(カデット)」です。この党の創立者はモスクワ大学の歴史学の教授ミリューコフで、中央委員を大学教授と弁護士で固めた、インテリ保守党です。次に大きな党は、同じくゼムストヴォ運動の流れを汲みながら十月十七日詔書の枠内での政治の自由、二院制を目指す「十月十七日同盟」、彼らが政府御用政党のオクチャブリストです。

 一方、革命諸派の動きですが、古くはナロードニキ運動の流れを汲む「エスエル党」は党右派が「エヌエス党」、党左派が「マクシマリスト」として分離しました。「ロシア社会民主労働党」のボリシェビキ部分は、19054月、ボリシェビキだけで第三回党大会を開催し、そこでレーニンがプロレタリアートの武装蜂起による専制打破と臨時革命政府樹立をその独裁を唱えました。同じ時期に「ロシア社会民主労働党」メンシェビキも党大会を開催し、当面目指すブルジョア革命においてカデットと連合をくみ、革命的自治制度の進展をめざす、という方針をとります。

 ロシア政府は十月十七日詔書で大幅な譲歩をしたので、これ以上の革命運動には徹底弾圧の態度で臨み、123日ペテルブルク・ソビエトのメンバーの大量逮捕が起こります。125日にはソビエト議長フルスタリョーフ・ノサーリが逮捕され、トロッキーが議長に選ばれます。そこで12月に入って結成された、ロシア社会民主労働党系が牛耳るモスクワ・ソビエトが主導権を握ることとなり、127日にゼネストに入る決定を行ないます。

 当日鉄道ほぼ全線が止まり、モスクワ市は停電、電信・郵便もストップします。モスクワ総督ドゥバーゾフは非常事態宣言を出し、市民は恐怖で二百万金ルーブルが引き出し、翌日は銀行・商店が閉鎖され、学校も休業、市内のあちこちで市民の集会が行なわれ、バリケードが構築されました。ロシア政府の竜騎兵や警官隊は市民集会に攻撃を加え(つまり治安当局内部者で革命運動に同調するものがまだいかったということです)、これにたいし鉄道員が警官・憲兵の武装解除を行なって自らも武装し、政府が制圧したニコライ駅に攻撃を加えましたが15日には政府軍の勝利となります。







道路を封鎖するバリケード





 1220日、さらに全国規模のゼネストが指令され、ボリシェヴィキによる武力闘争の指示が出、トヴェールスカヤ街にバリケードが構築されますが、ロシア政府がペテルブルクから派遣したセミョノフスキー連隊の攻撃により鎮圧され、この辺でゼネストによる公共機関の麻痺により迷惑した市民達の離反が相次ぎ、結局ソビエト執行委員会はストライキの中止を命じます。エスエル党の中心地だったプレスニャはこれに従いませんでした。

 サンクトペテルブルクからG.A.ミン大佐率いる近衛兵のセミョーノフスキー連隊が急行列車で到着、プレスニャを包囲攻撃、千人近い市民の犠牲者、百人近い兵士の犠牲者を出してプレスニャは陥落します。こうした政府側の砲撃により市民が動揺し、結局ストライキは中止されます。こうして労働運動は政府側によって鎮圧され、ソビエトも壊滅、1905年革命は終わりました。日露戦争の終結により、ロシア政府が革命運動に本格的な対策をとることが出来た結果です。



      〜 5. 第一回ドゥーマ選挙開催 〜

 いよいよロシアにもドゥーマ(議会)が持ち込まれ、議会政治が行なわれることとなりました。選挙のやり方は、まず選挙権を持つ層(クーリア)を三階層にわけ、土地所有クーリア、都市民クーリア、労働者クーリアを設けます。このクーリアの中で選挙権をもつものが代表選挙人を選び、代表選挙人の互選で最終選挙人を選び、最終選挙人がドゥーマ議員を選ぶという手はずになります。

 普通選挙法は民主主義国家の誕生を生み、専制君主制を脅かすと思われました。そこでロシア政府はなるべく比較的富裕な穏健派がドゥーマに当選するよう手を打ちます。それは、最終選挙人の一票の重みに格差をつけたことです。票の力関係は、労働者の1票を1とすると、農民の1票は3、都市民の1票は22.5、土地所有者の1票は45になります。さらに選挙時には戒厳令を敷いて選挙に大干渉します。

 ところが、日本の明治政府の第一回帝国議会の過半数が自由民権派で占められたごとく、1906年に行なわれたドゥーマ選挙の蓋を開けてみると187議席を獲得したカデットの圧勝、さらに当選者のうちの85議席の労働者のインテリゲンツィヤ的部分がトルードヴィキと呼ばれるグループを結成し、これの二つをあわせると過半数を超えます。つまりは自由主義的な、どちらかというと反政府的な勢力が多数派を占めてしまったのです。ちなみに社会主義政党諸派のうち、エスエル党、ボリシェビキの勢力は選挙をボイコットしたため話になりません。レーニンは選挙に出たかったということですが、ボリシェヴィキは特に武力蜂起を第一としていたため、権力との平和共存であるドゥーマは当然ボイコットの対象でした。メンシェビキは17議席を獲得しました。ちなみに右派は、オクチャブリストの17議席を加えても32議席です。

 これはいけないということで、ウィッテらにより、政府側は国家評議会なるものを設立します。この国家評議会の議員は半数が勅撰、その他も貴族や大土地所有者から選ばれたため、国家評議会は事実上、ロシアの有力者の集まりとなりました。そして国家評議会を上院、ドゥーマを下院と定めたため、法案はドゥーマから国家評議会に提出されるわけで、もしドゥーマでせっかく法案が通っても、国家評議会で否決された場合、その法案は廃案ですから、国家評議会はドゥーマに対する極めて大きな抑制となります。

 最後に国家基本法を制定し、ロシア皇帝の広範な権限、国家基本法の見直しの発議権、法律の裁可権、最高統治権、外交指導権、宣戦布告と講和締結権、陸海軍の統帥権、戒厳令ないしは非常事態の宣言権、貨幣鋳造権、官吏の任命権、内閣の皇帝による任命権などを法的に認め強化します。

 とどめの一撃として、ドゥーマの予算審議権を制限する法令を制定しました。皇室関連と国債の予算はほぼドゥーマの監視を受けず、既存の法律・勅令による歳入・歳出も無修正、勅令による戦時関連支出もドゥーマは関与できず、さらに新年度予算が期日までに成立しない場合は前年度予算が流用されます。ドゥーマは殆ど骨抜き状態でした。

 また、ウィッテらが推し進めた穏健な改革が、予定より大幅に進みそうになった雰囲気を見て、「空砲は撃つな、弾は惜しむな」といったとされるトレポフや、君主制に忠実なゴレムイキンらの保守派が巻き返し、ウィッテらや改革派農相クートレルらを辞任に追い込みます。そしてゴレムイキンが組閣を命じられました。

 さて、タヴリーダ宮が国会議事堂となり、第一回ドゥーマが開催されました。議員達は土地問題解決を訴え、カデットは国有地、御料地、教会領などを国家へ譲渡し、それを貧農に分け与えるという法案を提出し、トルードヴィキは自分が耕せる以上の土地を所有するものから、余計な土地を強制的に接収し、貧農に分け与えよという、きわめてトルストイ的な主張を展開、この二つの党の主張はどちらにせよ、大土地所有者が受け入れられるようなものではありません。

 結局、保守派のゴレムイキンはドゥーマとの全面衝突に陥り、政治を動かせなくなったゴレムイキン内閣はドゥーマ解散を決意し、ニコライ2世を動かして、解散の詔勅に署名してもらい、日曜日に出動した軍のタヴリーダ宮の圧力のもと、第一ドゥーマは解散します。ドゥーマ解散と共にゴレムイキンは解任され、後釜にはストルィピンが首相となり、内閣を組織しました。


   〜 6. 外交状況ーフランスの意向の下で 〜

 さて、日露戦争で不承不承講和したロシアですが、金詰りですから、とにかく借款をする必要に迫られていました。この時代、潤沢な金融資本を背景に極めてアクティヴな外交を行なったのがフランスです。

 1905年、北アフリカのモロッコ王国でフランスとドイツの対立が起こります。フランスは日露開戦後すぐに締結された英仏協商に基づいてモロッコの植民地化を目論見ました。そんなことが起これば地中海は完全にイギリスとフランスの海になってしまいます。そこで、1905年三月、奉天会戦直後ですが、ドイツのウィルヘルム2世が突如モロッコ王国のタンジールへ上陸しました。そしてモロッコの独立と門戸解放を主張し、ドイツがバックについたモロッコ王国は、フランスの権威に楯突いたのです。

 そこで事態を打開するため、19061月からアルへシラスで国際会議が開催されましたが、モロッコを半植民地化したいフランスは、モロッコの外国人警察官をフランス人とスペイン人に限ろうとし、ドイツはタンジール駐在外交団から選んだ警察長官の監督下にある外国人警察官をおこうと主張し、会議は決裂しました。

 ロシアは仲介役として動き、フランス両国に働きかけました。ロシアは、フランス側から借款(この時点では、国債引受などではなく、もはや借款となっていました。)が成立するかどうかはアルヘシラス会議の行方如何だといわれていましたので、ロシアはフランスがこの会議で満足できる結果が得られるよう無制限の支持を与えるよう訓示しました。結局ドイツの暴走により、各国はフランスを支持、これによりロシアに対するフランスの借款の交渉が始まり、190643日、イギリス・フランス・オランダ・ロシアの銀行からの借款が利子5%で225千フラン、そのうち過半数の12億フランがフランスからの借り入れとなる莫大な借款が成立しました。

 これでお金を借りた相手には頭の上がらないロシアは、フランスから、ロシアとの協商をもとめているイギリス外相グレイの意向を伝えられ、ペテルブルク駐在イギリス大使ニコルソンとロシア外相イズヴォルスキー(ゴレムイキン内閣からストルイピン内閣時代の外相です)の間に交渉が始まります。ところが、ロシア側はグレイの方から、イギリスと日本の間には日英同盟がありますので、日本とロシアの関係が改善されないと露英協商が機能しないとの意向を聞かされます。さらにグレイは日本のロンドン駐在日本大使小村寿太郎に、ロシアと日本の関係改善の希望を告げました。

 一方フランスも、日本との協商関係構築の交渉を開始します。こうして1907610日に日仏協商が成立し、清での日本とフランスの勢力範囲が決定され、インドシナにおけるフランスの勢力範囲を日本が認めるという内容になります。1907730日には日露協商が結ばれ、両国の国境の保全、清の領土保全と機会均等、満州における鉄道・電信における利益配分が決定されました。

 お膳立ては整い、長年いがみ合っていた両国の間で英露協商が結ばれ、1907831日にはペルシャのテヘランでその成立が宣言されました。東トルキスタンに隣接するチベットについては中国の支配権を認め、両国はお互い不干渉、アフガニスタンについてはイギリスがロシアに対する攻撃の基地を作らないという条件でイギリスの勢力範囲とします。

 ペルシャに関しては北部、中央部、東部の三つの部分に分割し、北部はロシアの勢力範囲、東部はイギリスの勢力範囲、中央部は中立地帯としました。ロシアは古代から都市の多く豊かなペルシャ北部を手に入れ、一方イギリスは重要度の低いペルシャ東部で我慢するというイギリスが譲歩した内容でした(理由は後で述べます)。ボスポラスおよびダータネルス海峡に関する取り決め、要するに両国がかつて衝突した全ての地域に関する勢力範囲が決定されたのです。

 イギリス植民相チェンバレン(ナチスへの宥和政策を進めたチェンバレンの叔父です)は、ドイツとの同盟交渉が失敗した場合、「法外な代価、例えば中国やペルシャ湾を含めての代価を支払ってでも、ロシアと妥協しなければならぬ。」と決心したとのことですが、日露戦争によるロシアの弱体化で現状維持のまま殆ど何物をも失うことなくロシアと手を結ぶことに成功したのです。これも日英同盟の果実でしょう。

 こうして、ヨーロッパとアジアにフランス・イギリス・ロシア・日本の協商網が出来、ヨーロッパにおけるもう一つの同盟勢力、ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟があったわけです。ところが1896年イタリアとフランスの間でチュニジアにおけるイタリア移民の法的立場に関する協定が結ばれており、フランスの優位を認めることでイタリアはフランスと実質和解していました。

 さらに1900年にはイタリアとフランスの間に秘密協定が結ばれており、イタリアはモロッコにおけるフランスの自由行動、フランスはトリポリにおけるイタリアの自由行動をもとめており、北アフリカにおける利害関係の調整をつけ、さらに1902年には、仏伊秘密協商が結ばれ、フランスがドイツから攻撃を受けた場合、イタリアはドイツに味方しないということが決められました。

 つまり、イタリアは三国同盟から事実上脱落していたわけです。こうしてヨーロッパに新たに現れた勢力図は、フランスが中心となって結成されたフランス・イギリス・ロシア・日本の協商網によるドイツ・オーストリア連合の包囲です。あのビスマルクの時代のドイツによるフランスの完全孤立の状態と如何に異なっていることでしょう。この激的な変化は、「外交革命」と呼ばれます。

 ロシアは1905年革命で疲弊し、内政を立て直そうとしていた時期ですから、外征においてアクティブに動くことはないだろうとの読みからイギリスがロシアとの融和に踏み切ったという複線もありますが、この激変の原因はひとえにドイツのヴィルヘルム2世の暴走です。

 ドイツはプロイセン以来、伝統的に陸軍国でしたがヴィルヘルム2世は、東洋艦隊司令官長官ティルピッツを海軍大臣に抜擢し、彼の指導のもと1898年艦隊法を定め、さらに1900年第二次艦隊法を設立し、1920年までに戦艦38隻、大型巡洋艦14隻、小型巡洋艦38隻などを常備する計画を立案します。これまで海軍らしい海軍をもたなかったドイツがこのような行為に出るということは、イコール海運国イギリスに対するあきらかな挑戦です。

 イギリスの話を始めますが、その圧倒的な工業力にもかかわらず、19世紀半ば、イギリスはすでに貿易収支が赤字に転落していました。当時の基軸通貨はポンドでしたので、この現象はポンドの世界散布から考えると歓迎すべき現象ではありますが、この数字は、すでにこのときイギリスの製造業の競争力が落ち始めていたということを如実に語っています。

 そこで三角貿易など(アメリカからイギリスへの綿花輸入、イギリスからアフリカへの綿製品輸出、アフリカからのアメリカへの奴隷輸出)などの凝った手を考え出しましたが、それでも貿易赤字は解消されませんでした。この貿易赤字を削減しようと、アメリカ植民地に輸出される紅茶などのイギリス製品に極めて高い税金をかけ、その反発から独立戦争起こされアメリカに独立されたり、赤字の大きな部分を占めていた清からの茶輸入の解消をねらって、清へアヘンを輸出し、当然これが問題となってアヘン戦争になったりしたわけです。すでにイギリスの製造業は19世紀中ごろには世界における競争力を失い始めていたのです。

 しかし、イギリスの経常収支は黒字を保っていました。それではイギリスはどうやって経常黒字をたたき出していたかというと、当時の世界の1/3の商船隊を握っていたことによる海運収入、サービス収支で黒字に持っていっていたのです(ちなみに第一次世界大戦時にはドイツのUボートによる無差別攻撃でこの商船隊が壊滅してしまいます、イギリス経済にとって致命的な打撃です。)。プラス、シーレーンを完全に抑えている安心感からの大西洋を越えた投資、アメリカ国債、アメリカの鉄道会社への債権投資です。ナポレオン戦争の頃から、産業革命による大量生産製品を売って設けた資金をもとに育ってきたイギリスの国際金融資本、ベアリング・ブラザーズやロスチャイルドのイギリス分家などの活発な投資とその利子がイギリス経済を支えており、こうして生まれた余剰資本が資本進出を先駆けとする、帝国主義的進出の元手となっていたのです。

 イギリスの正真正銘の生命線である制海権を脅かすこのようなドイツの行為は、まかり間違えばイギリスの繁栄を破壊しかねません。危機感を感じたイギリスは、当時の最新鋭艦、ドレッドノート級戦艦を進水させますが、ドイツは建造計画途上の戦艦を全てドレッドノート級に変更してしまい、ドイツの海軍力はイギリスにとって益々恐るべきものとなったのです。

 さらには、1898年ヴィルヘルム2世は自らオスマン・トルコに赴き、スルタンと会見し、1899年にはバグダード鉄道の敷設権を獲得しました。ようするにシベリア鉄道のドイツ版ですが、この鉄道はベルリンを基点とし、ウィーン、ブタペスト、ベルグラード、ソフィア、コンスタンチノープルを通過し、小アジアに渡って一路バグダードまで進むものです。いわゆる3B政策ですが、これはとうぜんドイツのペルシャ進出を意味し、イギリスとしてはせっかくロシアを追い払ったところにまたもインドを脅かしかねない相手、ドイツが現れることになります。

 さらにロシアとしてもバルカンを鉄道を通るということは、ロシアのバルカン政策に直接抵触することになりますから、この3B政策をロシアも放置しておくわけには行かず、イギリスとの積年の対立を解消してドイツに備える必要があったのです。また、この艦隊の建造費用はどこから出たのかといえば、輸入農作物への高関税です。この政策は、土地にその権力の根源をもつ、ドイツのユンカー(地主貴族)たち、彼らも領地から取れる農産物の販売で生活していますから、の保護になっていいといえばいいのですが、ドイツへの小麦輸出国であったロシアとの関係を悪化させ、これはビスマルクの時代から問題になっていた関税問題が、もはやどうにもならないところまで来てしまったことを意味します。あれほどの艦隊を作るわけですから、関税問題に対してドイツはロシアに対し譲歩する余地は全くありません。

 そこで生きてくるのが英露協商です。このドイツの脅威に対してイギリスはロシアと手を組む必要があり、さらにこの条約におけるペルシャの分割でイギリスは都市の多い豊かなペルシャ西部をロシアの勢力範囲と認めて一見譲歩したかに見えますが、こうすることにより、インドを狙ったドイツの3B政策の矛先が伸びてきた時に、まず中東でドイツとぶつかるのはロシアということになります。


  〜 7. ストルイピン登場ー開明派名門貴族の改革 〜

 さて、国内改革に話を戻しますが、こうして名門貴族の家に生まれ、ペテルブルク大学の物理・数学部を卒業し、内務省に勤務したという経歴を持つ、内相兼首相のストルイピンが改革を担うようになります。さて、ウィッテは工業化を突き進めましたが、これは後のソ連でも同じ事が起こりましたが、結局のところ国民の8割近くを占める農民の購買力の限界に突き当たって恐慌が発生し、工業化が行き詰まりを見せました。

 結果として外債導入によるロシア経済振興というウィッテ路線も、この時期莫大な額に膨れ上がった債務および利子払いの前に変更を余儀なくされる、はっきり申しまして失敗が露呈しました。1908年の段階における累積債務は885千万ルーブル、このうち494千万ルーブルが外債、利子支払いが24億ルーブルでこれだけで国家予算の12%を占めるという有様です。したがって、外資依存の工業化は停止し、農村を活性化(競争原理導入による富農増加)し、必要な資金は増税でまかなうという路線を選択します。この分ではたとえ第一次世界大戦への参加が免れたとしても、結局は借金でロマノフ王朝は倒れていたのではないでしょうか。

 ストルイピンは強硬手段を用いてでも、自らの権力を固め、それを背景に農村改革を行い、自作農を作り出すことでロシア帝国の経済の基礎を固めようとしたのです。

 1907年、首相になるとストルイピンは「例外法」なる政令を公布し、緊急事態が発生した場合、非公開の軍事法廷を設け、2日以内に判決を受け、有罪が確定した者は、24時間以内の処刑が可能とします。この政令により、5年間で処刑された人物は5000人にのぼるといい、当時絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたそうです。こうしてストルイピンは、まずは自分の権力を固めました。

 しかし、こんな強圧的な態度に革命家が黙っているはずもなく、エスエル党の暗殺部隊の男女二人がその下に爆弾を隠したたくさんの花を持ってストルイピンの別荘をたずね、31人を巻き込んで爆死しますが、このときはストルイピンはからくも助かりました。また、ペテルブルク総督のF.V.フォン・デア・ラウニッツも実験医学研究所の皮膚科に開設記念式典で銃殺されます。

 さて、第二ドゥーマの選挙は1907年に実施され、この選挙ではロシア社会民主労働党、エスエル党なども積極的に参加して当選を果たし、結局これらの政党やトゥルードヴィキなどの躍進により、カデットらの右派にたいする左派勢力が形成されましたが、結局のところやはり反体制派が主流を占めたのです(カデット123、トゥルードヴィキ97、社会主義政党諸派83、)。

 ストルイピンはこれではゴレムイキン内閣と同じで何も出来なくなると踏んだのでしょう、190761日、ドゥーマ内秘密会議で、社会民主党ドゥーマ議員が国家転覆を図っている証拠を入手したといい、55人の社会民主党ドゥーマ議員の追放を求めました。完全に濡れ衣でしたが、ストルイピンは問題調査委員会の結論を待たず63日社会民主党員を逮捕し、ドゥーマの解散および選挙法改定案を出します(これは通常63クーデターと呼ばれます。)

 新しい選挙法では、議員定数を減らし、地主議員やブルジョアジーを著しく優遇して選挙人数を増加させ、逆に農民の選挙人数を半数近くに減らすというものでした。この改定の結果、土地所有者は430人に対し1人の議員を選べますが、農民は6万人に1人、労働者に到っては125千人に1人の議員しか選べないというとんでもなく不平等な事態になりました。さらにストルイピンはポーランド・カフカース・シベリアなど地方や民族代表議員の定数も削減します。

 こうして政権を安定させて111日に第三回ドゥーマ選挙が開催され、結果は政府与党のオクチャブリストが最大会派となりましたが(オクチャブリスト132、カデット53、トゥルードヴィキ14、社会主義政党諸派14、国粋主義グループ93、)、過半数には到らず、この党は臨機応変に右派左派にくっつくことで議会のキャスティング・ヴォートを握ります。この議会勢力を前にストルイピンは様々な改革を行ないました。

 さて、ロシア人の中のロシア人と見られていたであろうストルイピンは、多民族に対する権利制限に踏み切ります。

 まず、フィンランドは、1905年革命の際に、積極抵抗派のコニー・ツィリアクスを出し、かれと日本の工作員明石元次郎とがパリで、反政府党・革命党の会合(エスエル党、解放同盟、フィンランドの民族主義政党、ポーランド社会党、ポーランド国民連盟、グルジア革命的社会主義者連邦党、アルメニア革命連合、あの内相ロリス=メリコフの甥ロリス=メリキャンが中心人物でした。ラトヴィア社会民主同盟)を開いた経緯がありました。もっとも、この大連合はこの会合以後一致団決した行動はとりませんでした(はっきり申しあげまして、これらの民族が面子では統一行動など到底無理です。)。

 また、フィンランドはロシア領とはいえ、外交以外のすべての自治が許されている特別区域です。したがって、ロシアの官憲はフィンランドでは極めて動きにくく、レーニンなどの革命家はしょっちゅうフィンランドに潜伏しておりまして、いわば革命家の巣窟の観を呈しておりました。つまり、事実上フィンランドは、非ロシア系住民の反帝政運動の震源地でありましたから、ストルイピンはフィンランドに対して極めて厳しい姿勢を見せます。フィンランドにこれだけの特別待遇を与えたのに、ロシア帝国転覆の謀議の中心地になるとは、恩を仇で返すとんでもない行為であると。もっとも、そんな転覆謀議を起こされるような統治をしている方が悪いと言えば悪いのかもしれませんが。

 1907年、ストルイピンはフィンランド問題特別審議会を設け、1908年、フィンランド行政をロシア帝国の管轄下におき、フィンランド行政官をロシア派の人物にすげ替えました。そして1910年、法によりフィンランド憲法を停止し、フィンランド議会を県ゼムストヴォ集会なみに格下げしました。こうして、これまでロシア帝国の下で事実上の自治を保っていたフィンランドは、ロシア帝国に事実上併合されてしまいました。








フィンランドで発行された切手の変遷

上:1882年発行
下:1907年発行


 1882年の切手には中央にフィンランドの象徴、ライオンの紋章が描かれており、ロシア文字の類は見られず、外交権以外のすべての自治を認められていた、きわめて温和なロシア統治下のフィンランドの様子がうかがえます。

 一方1907年発行の切手は、当時ロシア帝国内で使用された切手の図案を流用しています。切手の中央にはロシアの象徴、双頭の鷲が描かれ、厳しくなったロシア統治を物語っており、切手代がマルカなのが唯一フィンランド領内で使用されたことを示しています。


著作権はありません。




 1911年、さらにポーランドは西南部6県に対し、ゼムストヴォ参事会と被雇用者の過半数をロシア人にするという変則的ゼムストヴォ制度の導入を強要され、国家基本法に基づく拒否不能な皇帝の勅令という形で法制化されました。ポーランド人に対してもこの措置は当然不満が残り、さらにはドゥーマ議長のグチコフは、ドゥーマ無視との見解を出し、ストルイピンに対する不信任案を提出します。このときはなんとかニコライ2世に慰留され、内相にとどまりますが、この不信任案提出に示されるごとく、この時期彼はもうドゥーマをコントロールできなくなっておりました。しかも、19113月、あとで述べる怪僧ラスプーチンを首都から追放したため、ラスプーチンを盲信するアレクサンドラ皇后ににらまれ、結果として、いらないところで愛妻家の面を出したニコライ2世の不興も買ってしまっていたのです。

 ストルイピンがラスプーチンに会った際の覚え書きは以下のようなものです。


 ラスプーチンは薄青い目で、おもむろに私の体を撫でまわすと、やがて、ブツブツと聖書の文句らしいものを唱えつつ、両手を使って不可解な動作を始めた…どうやら、催眠術に長じているらしく、私は強力な精神的影響を感じ始めた。しかし、私は立ち直った。そして、不快感を抑えながら、声を荒げて、証拠はそろっているのだ、異端フリスチー教徒として告発するぞ、と警告したうえ、即刻ペテルスブルク(原文ママ)から立ち去れ、と厳命した


 さらに、ストルイピンが行なったのは労働者の待遇改善です。ストルイピンがドイツで視察した労働者保険をロシアに導入し、彼らに最低限の保障を与え、これをえさにした労働者のコントロールを考えていたようですが、この保険は雇用者負担の方向で話を進めましたので、当然商工ブルジョアジーの凄まじい抵抗に会いました。

 政府は商工次官が資本家代表も加えてこの問題を討議しますが、資本家代表は会議ボイコットなどを駆使して討議を妨害し、結局1912年、業務上の事故に対する災害保険、一般の病気などの対する疾病保険からなり、保険料は、前者は企業の負担、後者は被保険者と企業が6:4の割合で負担するという取り決めでなんとか法案が通ります。

 ストルイピンが行なった最大の改革は、農村改革です。古くからある農村問題としては、ロシアに古くからある連帯責任組織というべき農村共同体ミール(オプシチナ)の、共有耕作農地を農戸ごとに分け与える、つまりはミールの解体を狙いました。ミールとはロシア独特の農民共同地で、定期的に各農戸の家長が集まって会議を開き、領主から割り当てられた税金の支払い分を各戸に振り分け、その振り分けにしたがって土地の配分を行ないます。農戸の人数は当然変動がありますから、毎年微調整が行なわれますが、何年かにいっぺんは必ず総入れ替え(割替)が行なわれます。

 こういった共有地は自分の土地ではないですから、特に肥料をやるといったような生産性向上の努力が行なわれないため、慢性的にヨーロッパに比べて生産性が低く、滞納も1870年代以降増え始めており、これは、封建制および専制君主制ー土地を富の根源とし、土地と農民を支配し、その上に君臨することで存続する政体ーにとっては致命的な事態です。前ページでも述べたように、ウィッテなどもミールの納税能力を見限り、連帯責任制廃止案を提出したのですが、ストルイピンはミールそのものを解体しようとしたのです。

 つまり、ストルイピンの改革は、ニコライ1世のクリミア戦争敗退による反省から打ち出された、アレクサンドル2世、3世、ニコライ2世の治世の前期にかけて行なわれてきた一連の改革の方向、西欧の技術を取り入れ、かつその技術を使って西欧に対抗できる工業製品を、生産体制に置くためには不可欠の資本主義を、農村の犠牲の上にロシアに導入するやり方とは異なり、専制君主制が拠って立つ根幹である土地制度そのものを改善しようとするやり方は、まさに専制君主制建て直しを狙った真っ向勝負でもあります。

 しかも危なげな改革は常に非ロシア人系の人物にやらせていた(「ロリス・メリコフ憲法」をアルメニア人を父に持つロリス・メリコフに作成させ、シベリア鉄道建設は、オランダ人を父に持つウィッテにやらせました)政府にとって、(ツァーリ政府にとっては)ロシア人の中のロシア人、名門貴族のストルイピンがこの改革の先頭に立ったというのは、まさにロマノフ王朝の起死回生を賭けた大事業だったといえましょう。

 ストルイピンはこの割替が24年間行なわれていないミールについては、すでに土地の私有が行われているとみなし、各農戸に配分するという決定を下したのです。こうして土地を農民に配分し、自作農を作り出そうとしたのです。この自作農のモデルとして、彼がグロドノ県知事時代に視察したプロイセンのフートル制です。

 ところが、長年にわたってミールでの生活を送っていた農民にとって、ミールから切り離された生活を送ることに対する強い抵抗があり、結局ロシア全土でフートル農民に移行したのは全農民数の一割です。しかも、大きな共同体から離れ、わずかな土地を分配された小農民が土地を維持できるはずもなく、むしろ分配された土地を売り払ってかえって無産化する傾向の方が大きかったのです。ちなみにこうして出現した土地のない農民や弱小農民は入植のためシベリアへ送られました。

 もっともストルイピンの改革は、全てが失敗だったという訳でなく、1914年までに4世帯に1世帯がミールからはなれて私有地を持つことに成功し、10世帯に1世帯が土地をまとめることに成功し、レーニンをして「これでは我々の仕事がなくなってしまう」を言わしめました。また、指導的立場についたフートル農民(ロシア的にはクラーク)の指導により、この後数年は豊作が続き、当然農民はツァーリ政府に対して好意的となり、のちのソ連時代に、農民がボリシェヴィキに対する抵抗勢力となる原因の一つとなりました。

 しかし、土地問題に手を触れる政治家にとっての大方の運命が彼を待ち受けていました。1911年、キエフでリムスキー=コフサコフ作の『皇帝スルタン』観劇中にストルイピンは、アナーキストでエスエル党のボグロフによって狙撃され死亡してしまいました。その時の様子をニコライ2世は皇太后マリアにこう書き送っています。


 
オリガとタチアーナがいっしょでした。熱いので、幕間にボックスを出ようとしたら二度続けて鋭い音がしたのです。急いで、その方角を眺めると、将校たちがもみ合って誰かを引きずっているのです。眼前にはストルイピンが立ったまま、左手を上げ、ゆっくりと、空中に十字を切ります。見れば、顔は蒼白になり、胸から右胸にかけて鮮血が吹き出しているではありませんか。と思うと、かれは座席に崩れ落ちました…


 ストルイピンは5日後に亡くなり、後任としてココツォフが首相となります。


  〜 8. 大戦前夜の経済界ー借款のあだ花 〜

 アルへシラス会議のフランスへの支持と引き換えに成立した借款はロシア経済を潤します。しかし、これは借金で贅沢な暮らしを楽しんでいたのと全く同じですから、ほぼ完全なるあだ花といっていいでしょう。また、ストルイピンの農地改革も一定の成功を収めたため、農民層にも不穏な目立った動きはありませんでした。

 ともかく、この豊富な外資を背景にしてロシアでもこの世紀にアメリカなどではやったトラストが発生します。USスチールの誕生同様、ピョートル時代のニキータ・デミドフが開発したウラルの鉄鋼業を、南ロシアの鉄鋼生産が追い抜き、余勢をかってロシア全土の鉄鋼生産を独占しようとプロダメト(「ロシア製鉄工場製品販売会社」)が結成され、1913年までにロシア鋼板生産の80%を占めました。

 石油業でも、大トラストで誕生したロックフェラーのスタンダード石油がアメリカを支配し、石油支配網をさらにヨーロッパにまで伸ばそうと、ルーマニアの油田に触手を伸ばしてきました。これに対抗して、1906年、オランダのロイヤル・ダッチ石油会社とイギリスのシェル運輸貿易会社が合体してロイヤル・ダッチ・シェルとなり、ロシアの油田に目をつけます。これでスタンダード石油の猛攻に破れ不況風の吹いていたロシア内部の石油産業界で再編成が起こります。

 当時ロシアの石油会社は、資本援助を受けることで実質的にロスチャイルド・パリ分家のものとなっていたノーベル兄弟社とロシア・アジア銀行を金主とするロシア一般石油会社がありましたが、1914、不採算でノーベル兄弟社はバクー油田をロイヤル・ダッチ石油会社に売却し、かわりにロスチャイルド・パリ分家がロイヤル・ダッチ株(全株式の10%)、シェルの株を購入し、ロイヤル・ダッチ・シェルの経営に参加し、外国資本による石油生産のトラストが誕生します。


  〜 9. 革命運動の沈静化ー資金難と党の分裂 〜

 さて、国会が開催されて、国民の、政治参加したいという気持ちにある程度のガス抜きがもうけられ、さらに成立した大借款によるあだ花景気がロシアを覆い、ストルイピンの農村対策もある程度功を奏したため、革命運動に走ろうという声は当然下火となり、革命党諸派にとっては困難な時期となります。率直に言えば、カンパが減って、資金難に陥ります。

 しかし、レーニンはロシア社会民主労働者党のため、「徴発」を決行します。これは要するに、ボリシェヴィキが資金調達のために「戦闘団」なるグループを組織させ、政府の現金輸送や銀行を襲わせて、資金を調達するやりかたです。要するにギャングと同じことをするわけですが、ここまでではないにしろ、たとえば大富豪のモロゾフ家のシュミットが、モスクワ蜂起の際に逮捕され、獄中で自殺しましたが、兄の死で遺産を相続したシュミットの未婚の姉妹二人にたいし、レーニンは党員を送って結婚させ、遺産を党に寄付させたりなど、いかにもロシアらしい荒っぽいやり方をとっていたのです。といいますか、ロシアのきわめて粗っぽいやり方は、ボリシェヴィキ時代に端を発する所業なのではないかという気がいたします。ちなみに、この「戦闘団」に指示を送る汚れ役を着せられていたのが、何の因果かこれ以後もずっと汚れ役を果たさねばならなかった、当時イヴァノヴィチなる変名を用いていた後のスターリンです。

 レーニンは「個人財産の「徴発」は許さない。官有財産の「徴発」は奨励しないが、党の統制の下で行い、その資金を蜂起の必要に振り向ける」、と主張しますが、19075月、ロンドンで開かれた第三回党大会でも、そのことが話題となります。メンシェヴィキのマルトフは、さすがに恵まれた繊細なインテリらしく、その手のエグイ話には耐えられず、トロッキーもレーニンを非難しました。

 党大会を何とか乗り切ったものの、これ以後ボリシェヴィキの指導者はレーニンからボグダーノフに移り、この時期に、ボグダーノフに代るレーニンの腹心となったのが、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーです。さらにレーニンは「徴発」をやめず、19076月、チフリス国立銀行に送られるはずの500ルーブル紙幣(ピョートル大帝の肖像が書いてある大型紙幣)の341000ルーブルがボリシェヴィキのカモ率いる強盗団に襲われました。

 このルーブル紙幣はスターリンが勤めていたチフリス天文台に隠され、国境を越えることに成功してベルリンまでたどり着きました。早速マネーロンダリングだと言うことで、レーニンは12月、この500ルーブル紙幣をヨーロッパ各国で両替させますが、紙幣の番号が手配されており、各地でボリシェヴィキの党員が逮捕されます。

 この中には後年、孤立していたソ連を国際連盟に加入させることに成功した、後の外務人民委員リトヴィノフも含まれており、彼はパリで逮捕されましたが、ラッキーなことに法相ブリアンはリトヴィノフをロシアに引き渡さなかったのです。このように市民革命の本家本元のフランスは伝統的に革命家に対して寛容で、そののりで20世紀もホメイニ師に亡命を許可し、イスラム原理主革命をイランで成功させる原因を作ります。

 結局レーニンの余りに過激な中央集権的思考、度重なる「徴発」により、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ1912年のプラハの協議会でメンシェビキから離脱する、というか、自分を信じるもののみを正統派とし、他の者を除名することを宣言しました。もっともこれには、レーニンの側近で、革命後に押収された文章で、ロシアの秘密警察のスパイであることが判明したローマン・マリノフスキーが、当局も社会主義勢力の分断を望んでいたため、ボリシェヴィキの中に、党の統一のために活躍する人物があらわれるとすぐにこれを逮捕させ、党の分断を図った事情もあるようです。


    〜 10. 大戦前夜ー繁栄と混乱の時代 〜

 ストルイピンが銃弾に倒れ、新たに首相と内相を選ぶこととなり、ココツォフが首相に、国家評議会書記長のマカロフが内相に就任します。政策的にはストルイピンの継承でしたが、ところがこのときストルイピンの死でサンクトペテルブルクに舞い戻ったラスプーチンが皇帝夫妻に対し影響力を強めており、ココツォフはラスプーチンを故郷の西シベリアへ再度追放しようとしていましたから、皇帝夫妻の不興をかい、その立場はのっけから危険なものでした。







グリゴーリー・エフィーマヴィチ・ラスプーチン
Распутин, Григорий Ефимович

タボールスク(トボリスク)出身の「神の人」


 



 ラスプーチンの死後ケレンスキーらの臨時政府が設置した調査委員会の報告によりますと、ラスプーチンは、トボリスク県チュメニ郡ボクロフスコエ村に生まれました。チュメニにのこる洗礼記録によると、1869年1月23日(ユリウス暦1月10日)出生ということです。農民としてすごし、19歳のときにプラスコーヴィヤ・フョードロヴナ・ドゥヴローヴィナと結婚します。しかし、杭を盗んだかどで地方裁判所に出頭させられ、ほとぼりを冷ますためか、ヴェルホトゥーリエ修道院に行きます。そこで三ヶ月間過ごし、マカーリーという長老(大人数で共同生活を営む修道院でなく、辺境で世を逃れたごく少数で修行を行うスキトの修道士ではあるが俗人の霊的指導も行うロシア独特の修道士)のもとへ通い、自らも長老になることを決めたといいます。

 そして、おそらくは「カリーキ・ペレホージャ」と呼ばれる巡礼たちに混じって時々家に戻りながら(1897年ドミートリ、1898年マリーヤ、1900年ヴァーリャ(娘)が誕生しています)も放浪生活を始め、
1904年ペテルブルクにやって来ます。ラスプーチンは、つてにつてをたどってアンドレエフスキー寺院のイオアン司祭を訪ね、
司祭はラスプーチンに異様な性質を見出し、長老として祝福したとのことです。

 ウィッテのいとこのブラヴァツキー夫人が神智学を創始するなどの、
オカルト全盛期の時代背景もあったのでしょう、もともと超自然的な事項に非常に興味を持っていたアレクサンドラ皇后(ヴィクトリア女王の娘、旧名アリックス)に、皇太子の病を治すとの触れ込みで取り入ったのです。イギリスのヴィクトリア女王が持っていた血友病(怪我などの出血がとまらない病気で当時の患者は大体30歳前に亡くなったといいます。)の因子が息子のアレクセイに発現してしまい、これを何とか直そうと、怪しい治療法にも手を出していました。

 
ちなみにアレクサンドラ皇后はラスプーチンが来る以前から、自分に皇太子が生まれるよう、フランスからフィリップなる予言者を雇い入れ、皇后の懐妊時に皇太子の誕生を予言した彼はニコライ1世から勲章をもらい(そのときアナスタシアが生まれたのですが)、ミーチカ・プラートフという、ふうてん行者(ユロージヴィ、キリストが敢えてケノーシスを実行して十字架にかかり、その人性を苦しめたのと同様、あえて痴愚のふりをしてその身に苦しみを受ける人は、ロシア正教では聖人としてあがめられます。)を招いたりしていました。

 自分の名前すら書けず、スープを皿から直接すすり、魚は手づかみで食べ、農民用のブーツをはき、鼻を突くにおいを発散させていたラスプーチンは最初ユロージヴィのような扱いでしたが、ラスプーチンは皇太子の出血を止めることができた、という触れ込みでアレクサンドラ皇后の絶大な信任を受けます。この件については、皇太子の血友病に関する医師の診断書を見たことがないのでなんともいえません。また、ロシア帝国の次期皇帝が健康上の重大な問題を抱えているという情報は当時国家機密とされており、基本は本人の性格のせいだと思われますが、育ちはイギリスでもドイツ出身ということで基本的に周りから好かれなかったアレクサンドラ皇后にとって、この苦しい気持ちを打ち明けられるカウンセラーのような存在がラスプーチンだったのかもしれません。

 つまり、ラスプーチンは、神品(聖職者)でなく、修道誓願をした形跡もなく、孤独のうちに修行する部分が見当たらず、俗世
間に出っ放しですし修道士でもありません。長老であるかもしれませんが、修道院に所属していない以上これも微妙な話です。では、ロシア正教の異端であったかといえばそれもわかりません。小説『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』で、登場人物たちとその関連が指摘される鞭身派の、さらに分かれた1グループ、徹底的に罪を犯すことで罪をつぐなえると主張する「新しきイスラエル」とラスプーチンとの関係が取りざたされていますが、定説とはなっておりません。すくなくとも十字は三本指できっていたということで分離派ではなさそうですし、放浪時代にポクロフスコエ村の司祭に異端の疑いで調査を要求され、トポリスク主教が調査団を派遣、警察も捜査をしましたが、物証は挙がらなかったとのことです。

 個人的な意見としては、正教の信仰は持っていたでしょうが、おそらくは彼はいかなる宗教・異端とも関係なく、今のロシアでいうことの「超能力者」として売り込んだのでしょう。彼はいつからか、「神の人」(ユロージヴィとして4世紀のローマの神の人アレクセイという人物がいますが、彼にあやかった呼び名でしょう)と呼ばれるようになり、一部からあがめられるような存在になります。

 アレクサンドラ皇后のラスプーチンへの傾倒ぶりを示すものとして、イリドールという僧がラスプーチンからもらいうけ、1912年に発表したアレクサンドラ皇后のラスプーチンあての以下の手紙が残されています。


 …私の愛する忘れがたき恩師よ、救霊者よ、指導者よ!貴僧がいないと本当につまらない。師の君が私の傍らにあるときのみ、私の心は安らぎ、私の体は休息できるのです。貴僧の手に接吻し、貴僧の肩にこの頭を載せたい。そうすれば、そうする時だけ、身も心も浮き浮きとするのです。私の願いはただ一つ。永久に貴僧の肩に寄りかかり、永久に貴僧の腕に抱きしめられて、眠りにおちること、眠りに落ちること…。

  貴僧がそばにいるときの無限の幸福感!どこへ行ってしまったのです、その貴僧は?今、どこにいるのです?ああ、私は哀しい。私の心臓はせつなく求める…早く帰ってきて。私のそばに帰ってきて!早く、早く!

  私はこんなにも貴僧を待ち焦がれ、貴僧のために私自身を苛んでいるのです。どうぞ貴僧の祝福を与えてください。貴僧の聖なる御手に接吻をさせてください。

     永遠に汝を愛す

         貴僧のM(
Мамаのことです


 いくら皇后が、後で自分の手紙が公開されるとは思ってもみなかったであろうとはいえ、さすがにこれは誤解の種をばらまきかねません。この手紙で世人は、アレクサンドラ皇后はラスプーチンの情夫だと断定したということです。個人的には、最後の
Мамаという署名から、アレクサンドラ皇后は、母親が息子に寄せるような愛情を寄せていたのではないかと思いますが、ロシア帝国皇后として、この手紙は不用意に過ぎるでしょう。

 1912年、第三ドゥーマは無事会期5年満了で解散し、再選挙が行なわれます。内訳は右翼、ナショナリスト、議席を3/4に減らしたオクチャブリストで右派を結成し、カデット、ブルジョアジーが集まって結成された進歩党、民族党などが集まって左派を形成し、左派が過半数を占めました。

 この時期は、保守右翼からの攻撃がはげしく、チェルニーゴフ県知事から内相に転じたマクラコーフらが激しくココツォフを攻撃します。1912年、シベリアのレナ鉱山で、労働条件改善をもとめた争議が起こりましたが、当局は軍を投入して発砲、少なくとも労働者170人が銃殺されるという事件がおこり、各地で抗議の労働運動が展開され、物情騒然としていました。このとき、この事件の調査で名をあげ、故郷のボルガ県から立候補してドゥーマ議員となったのがケレンスキーです。マクラコーフは首都に非常事態を宣言し、ドゥーマを解散する勅令をもらえるよう皇帝への書簡での賛成を取り付けます。これはなんとか防ぎましたが、さらにラスプーチンと『市民』紙の主宰メシチェルスキーから、ドイツの脅威に備えてロシアが一体となるため専制と正教へ回帰すべきだと主張、フランスとの鉄道債の交渉が終了したのち、たまらずココツォフは首相を解任されます。

 後続首相にはゴレムイキンが返り咲き、蔵相にはバルクが任命されました。

 物情騒然たるロシアの新世紀、第一次大戦はもう目の前です。



      ーーーこのページの主要参考文献ーーー

   ・『世界の歴史21 帝国主義の開幕』
    中山治一 責任編集
    河出書房新社

   ・『世界の歴史 22 ロシアの革命』
    松田道雄 著
    河出書房新社

   ・『世界の歴史13 帝国主義の時代』
    中山治一 責任編集
    中公文庫

   ・『ロシア革命の現場証人』
    加瀬俊一 著
    新潮選書

   ・『日露戦争』
    古屋哲夫 著
    中公新書

   ・『ロスチャイルド家』
    横山三四郎 著
    講談社現代新書

   ・『高梁是清自伝 上・下』
    高梁是清 著 上塚 司 編
    中公文庫

   ・リョーヴィン恵美子
    『ヴァレンティーナー正教司祭の娘の二十世紀』
    文藝春秋、1998

   ・ブライアン・モナイハン
    『実録ラスプーチン上・下』
    白須英子訳、草思社、2000

   ・安村仁志
    『古儀式派と諸宗教セクトの関係(1)』
    中京大学教養論叢 31(3), 927-943, 1991

   ・清水俊之
    『近代ロシアの修道性と長老制の発達についてーオプチナ修道院前史より』
    神戸外大論叢 53(6), 43-103, 2002

   ・『フランスの対ロシア公債投資−1888年〜1913年−』
    中山 裕史
    ロシア史研究No.44 ロシア史研究会

   ・『ロシア史 2』 
    田中陽児 倉持俊一 和田春樹 編
     山川出版社

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