ロマノフ王朝(13

〜〜ロマノフ王朝最後のツァーリ〜〜



ニコライ2世 / Николай II

(モスクワ総主教座)ロシアの新致命者と表信者集団の苦難に耐えた者
/ страстотерпец в сонме новомучеников и исповедников Российских
(在外ロシア正教会、РПЦЗ)
致命者 / мучник
1868 - 1918年 ロマノフ王朝最後のツァーリ。

 

 


Российкая

 
 

История


 



         〜 1. ニコライ2世の即位 〜

 肝臓病で亡くなった父アレクサンドル3世の後を受け、ニコライ2世が即位することになりました。このとき彼は26歳で未婚、政治に関しまったく手を出していない状況でした。ニコライ2世自身「わたしは皇帝になる用意ができていない。皇帝になりたいと思ったこともない。政治のことも何一つ知らない。わたしも、そして全ロシアも、いったいどうなるだろう」と語ったといいます。

 また、ロナルド・ヒングリーいわく、「彼(ニコライ2世)はチャーミングで上品で感じのよい風貌をしていたが、体躯は小さく、あまり立派な押出しではなかった。専制君主というよりは地方の郷士といった感じで、帝国を支配するよりは、犬や子供たちと戯れている方が好きだったのである」と書いているそうです。

 しかし彼はロシア帝国のロマノフ家に生まれてしまった身分です。周囲としては、そう言っておられても困るということで、アレクサンドル3世の葬儀が終わった後、ヴィクトリア女王の孫の一人、婚約者のドイツのヘッセン=ダルムシュタット公娘アリックスとすぐに(アレクサンドル3世の死後25日後)結婚させ、1894年に皇帝に即位し、1896526日にはクレムリンで戴冠式も行ないました。

 ところが即位後まもない530日に、「ホディンカの大惨事」という事件が起こります。ホディンカはモスクワ郊外の地名でして、その場所でニコライ2世の戴冠式を記念して貧民に施し物を贈ることになっていました。が、施し物をもらえるということで、ここに10万人を越える人々が集まり(資本主義の発展による二極分化が帝政ロシアでもだいぶ進んでいたのでしょう。)、中央の一部で混乱が起こり、人々が将棋倒しとなって2000人が犠牲となる惨事が起こりました。

 ニコライ2世自身の日記によると


 ー「土曜日、これまでおかげさまで(たぶん、слаба богуと書いてあるんでしょう)万事順調だったが、今日大変不幸な事件が起こった。弁当と飲み物の分配が始まるのを待って、ホディンカの野に野宿していた大群衆が仮設建物に押し入り、そこで恐ろしい圧殺事件が起こった。その際、約千三百人が踏み殺されたというのは恐ろしいことだ。ヴァンノフスキーの報告の前に、午前十時半にこの事件の報告を受けた。おかげで、今日はとてもいやな思い出が残った。十二時半に昼食をとり、それからアリックス(アレクサンドラ皇后のことです)と私は、この悲しむべき国民の祭りに出席するためにホディンカに向かった。そこでは特別な事件は何もなかったのかのごとくであった。幕舎から、国歌と『栄光あれ』を繰り返し演奏している楽隊を取り囲んでいる大群衆を見た。

 午後八時にママ(マリヤ皇太后)のところで夕食をとり、フランス大使モントヴェロの舞踏会に出かけた。非常に美しい会であったが、耐え難いほど暑かった。夜食の後二時にひきあげた」



 この惨事はニコライ2世の治世の先行き不安の前兆とうわさされ、さらにこの惨事の後でフランス大使の主催の舞踏会に出席したことはあまりにデリカシーに欠けると朝野で批判されました。フランスは当時ロシア帝国の大事な借金相手であり同盟国で、この日のためにフランス側は高価な贈り物と10万本のバラを用意していたのでやむを得ず出席したとのことですが、なんとも間の悪いことです。

 また、祖母にあたるヴィクトリア女王は、夫のニコライ2世は気に入ったものの、ロシアに行く末、ひいてはこの二人の結婚についてひそかに不安を感じていたということです。女王は以下のように書き記したといいます。


 
ー「ロシアという国、その政治形態、われわれとのさまざまな違い、恐るべき不安定さに、かわいいあの子が翻弄されるのではないかと。あの若さで、いつひっくり返されるかわからない王座に着かせられることを思うと、彼女の今後の結婚生活へのいろいろな不安がどっと湧き出してくるのです。アリッキーのかけがえのない生命、とりわけその夫の生命は常に脅かされているというのに、彼女にはめったにしか会えない。彼女は両親がなく、私がたった一人の親代わりの祖母なのです。」ー


 さすがは大英帝国絶頂期の女王の言、慧眼に過ぎるといえましょう。





     この章に登場するロマノフ一族の系譜


 ―アレクサンドル3
      |
      ├――ニコライ2
           |    |
           |    ├―――オリガ
           |    |     |
           |    |     ├―タチヤーナ
           |    |    |
           |    |    ├―マリア
           |    |    |
           |    |    ├―アナスタシア
           |    |    |
           |    |    └―アレクセイ
           |    |
           | アレクサンドラ
           |
           └―セルゲイ


   青色下線:メイン人物
   赤色   :女性
   斜体   :物故者




        〜 2. ウイッテ体制の進展 〜

 鉄道建設による各種工業の刺激策は、この時点では功を奏し、ドネツ炭田とクリヴォーイ・ローク鉄山を鉄道で結んだことで、旧来のエカテリンブルグ付近だけでなく、南ロシアも重工業地帯として発達し、銑鉄生産量は1900年には世界第4位に躍進し、銑鉄生産量の増大につられて石炭の生産も南部地域で急速な伸びを示しました。石油生産についてもバクー油田を本拠地とするノーベル兄弟社、パリのロスチャイルドが設立したカスピ海黒海石油会社などの健闘により、こちらも1900年までには世界の石油生産量の51%を占める勢いになります。

 工業が発達すれば、とうぜん労働争議も起こるのは道理です。当時逮捕されていたマルトフ、レーニンらの扇動パンフが効いたのか、1896年にサンクトペテルブルクで13時間の労働時間の短縮をもとめる綿工業労働者のストライキが発生し、16工場、16155人の工員が参加する大規模なものとなります。これによって就労時間を11時間半とする労働時間法が設定されました。

 このような工業生産の発達、それに伴う労使対立の発生は、ロシアでも、ともかく重工業および資本主義が発達してきた(借金景気ですから、もちろん手放しでは喜べませんが)ということの何よりの証拠です。

 さて、1900年には義和団の乱がおこります。ウィッテはシベリア鉄道全般に関する責任を負っていたため、東清鉄道保護と義和団鎮圧のため、満州にロシア軍を派遣する許可をツァーリに送ります。義和団が韓国北部へ侵攻した場合、日本が義和団鎮圧のため韓国へ兵を送る可能性が考えられましたので、そのため満州が危機にさらされるのを恐れたためでもあったのでしょう。

 後にまた詳しく書きますが、こうしてロシア軍の北満州のシベリア鉄道支線、中東鉄道沿線沿いの土地の占領が行なわれました。ロシア軍の満州占領と言われるものですが、この時点ではあくまで鉄道保全が目的で、兵力も鉄道沿線にそって配備されました。ところがまずいことに、後に述べますが、建前上は清の所有する鉄道ということになっていましたが、その実イギリスの借款鉄道であった京奉鉄道の沿線沿いの土地の占領が行なわれました。

 先ほどロシアの資本主義が順調に進んだと書きましたが、こうしてまたも軍事費がかさむような情勢が現れたにもかかわらず、そのロシアにも資本主義が避けては通れない負の側面、経済恐慌が1900年に発生します。これまでロシアは外債という借金を重ねつつ投資を行い、そのもうけで借金を返済していたのですから、儲けは出ないが借金は返済せねばならない利子も膨らむという、極めてまずい状態に陥りました。

 不況は社会不安の最大最悪の因子です。経済恐慌が広がり、キエフ大学、ペテルブルク大学で学生運動が発生し、これに対し懲罰徴兵を行なおうとしたところ、文部大臣ボゴレーポフが、学生カルポーヴィッチに狙撃され死亡しました。1902年南ロシアでも農民の地主領襲撃が起こり、1000名を越える逮捕者が出ます。

 この辺はのちのソ連時代最初期に、レフ・トロッキーなども指摘するところなのですが、この時点ではやはりロシアは農民がその8割を占める農業国家です。ですから、いくら工業製品を作ったところで、最終的な購買者のほとんどは農民になります。ところが、工業化を推し進めることで農政をほったらかしにしておくと、結局農民に購買力がつかず、かといって海外に輸出できるほどロシア製品の品質がよいわけでもなく、安さで勝負しようとしても、植民市主義全盛期で世界の市場が自由に解放されているわけでもないこの時代は、工業製品の売り先がなく、結局製品が売れ残り、不況となります。

 そのへんはウィッテも承知していたらしく、農村をなんとかしようと、ウィッテらの大蔵省が農村の共同体による納税の連帯責任制廃止案を提出しますが、共同体による統制を緩めてはならないと内相シャピーギンが反対します。1902年にはなんとか妥協のめどが立ちましたが、今度は内相シャピーギンが、エスエル党(СР, Партия Социалистов-Революционеров)戦闘団員バルマーシェフに暗殺されてしまいました。

 後任者として、ワルシャワのドイツ人教師の息子で、モスクワ大学法学部出身のプレーヴェが内相になりますが、この内相プレーヴェと蔵相ウィッテの間で衝突が起こり、連帯責任廃止案は暗礁に乗り上げます。

 1903年にはベッサラビアでポグロームが発生し、同年にはザカフカースから南ロシアまで、グルジアのチフリス、オデッサ、キエフ、ニコラーエフで労働者の大ストライキが発生します。農民を主体としていた時代の、真の善きツァーリの希求であった変革を求める行動が、労働者の直接行動であるストライキへと変質してしまったのです。

 結局、工業化を進める段階で発生した不況・労働争議・農村疲弊などの社会問題の解決策を見出すことができなかったかどで、1903年、ウィッテは蔵相をはずされ、首相(閣僚評議会議長、内閣制度の制定されていないロシア帝国においては閑職)になります。


   〜 3. 極東情勢ー日清戦争と清の分割 〜

 ウィッテはシベリア鉄道建設の責任者であり、従って(従って、と言ってしまうのも大雑把過ぎますが)鉄道の敷設地域である極東のアジア政策も担当していましたが、その極東に思わぬ伏兵、日本が現れます。独自の努力でアジア初の近代化を成し遂げ、列強の一員として行動し始めた日本は朝鮮の中立化によって列強との間に緩衝国をおき、自国の保全を図ろうとしていました。

 少し時代をさかのぼって述べますが、この日本の朝鮮の中立化を目指す行動は、朝鮮に対し伝統的に宗主権を保持し、一定の影響力を保っていた清を刺激します。日本と清の両国は、李氏朝鮮宮廷の混乱に乗じて自国の影響力を確保しようとお互いしのぎを削っており、この動きにロシアも一枚かんでいたのは先に述べたとおりです。

 ところが、このように列強の利害が食い込む半島で、微妙な均衡を揺るがしかねない内乱、東学党の乱が起こりました。東学党とは西学(キリスト教)に対抗してできた新興宗教集団で、これが農民の間にひろまり、東学党によって組織された農民と地主の衝突は内乱に発展します。時流に乗った東学党の軍は政府軍を破り、全州城を陥落させ、反乱は朝鮮全土に広まりました。

 李氏朝鮮側は清に救援を頼みますが、日本政府はこの東学党の乱に乗じて清が大軍を駐留させれば、日本が望む朝鮮半島中立化は不可能と判断し、在朝鮮日本公使大鳥圭介を通じて、李氏朝鮮側から日本にも救援を要請するよう宮廷に圧力をかけます。これにより、なんと李氏朝鮮側から清軍を排除する要請を出させることに成功しました。

 日本陸軍は、現地居留民と日本の権益の保護(実際李氏朝鮮の対外貿易の9割は日本で、この貿易を通じて相当の日本資本が朝鮮に進出していました)を目的にすでに7千名規模の混成旅団を朝鮮半島の仁川に派遣していましたが、以上のような経緯を含む李氏朝鮮側からの依頼(?)を受けた日本政府は、729日すぐさま日本軍に軍事行動を命令、清軍を敗走させます。この行動の5日前に清側の発砲より始まった日本側戦艦3隻と清側2隻による小競り合いのような海戦が起こっていたのですが、ともかく清国側に日本側からの宣戦布告がなされたのは、戦闘がはじまった後の81日でした。

 1894年、こうして日清戦争が始まったわけですが、当時の清国軍の主力は太平天国の乱の鎮圧に活躍した李鴻章の淮軍です。この淮軍とは、中央政府から俸給をもらっているわけでなく、李鴻章が総督となって現地の官憲や郷紳の兵力提供・資金協力を仰いで編成した軍隊で、いわば李鴻章の名前と努力で出来上がったのですから、私兵・傭兵に近いものです。中国最強の淮軍を率いる李鴻章は、その淮軍の力を背景に宮廷で絶大な権勢を振るっていたわけですから、淮軍の損傷を何よりも嫌がり、まともに戦おうとしなかったのです。

 また、李鴻章の権勢をねたむ他の大臣は自分の私兵を出兵させませんでしたから、日本軍が戦っていたのは清国軍全軍でなく、その実あくまで李鴻章の私兵です。日本が勝利を収めたというより、私兵の減少による政治力の失墜を恐れた李鴻章の都合で、1895年下関条約が結ばれ日清戦争は終わりました。この辺の事情をわからず、自国の力で清国に勝利したとの勘違いが、のちの太平洋戦争での日本の歴史的惨敗の遠因でしょう。ともかくこの条約では、清が李氏朝鮮の宗主権を放棄し朝鮮半島から手を引くこと、日本が遼東半島、澎湖島、台湾、などを手に入れること、更には最恵国待遇を日本にも認めること、7つの港を新たに開き、清国で工場を設け、製造業に従事することを認めること、が認められました。

 この条約の中で特に注目すべきは、開港し、工場を設けることを認めた条項です。ヨーロッパ列強は、清に対し最恵国待遇ーある国が清と何らかの条約を結んだ場合、その条約は、最恵国待遇を認められた他の国にも自動的に適用されるーを認めさせています。ですから、日本が結んだ先にあげた二つの条項(開港および工場操業の許可)は各列強に自動的に認められますので、日本は自国の軍事力で、他のヨーロッパ列強のために、清の市場をこじ開ける労をとったことになり、さらには最恵国待遇を独力で清から奪い取ったことは、今後日本は列強と同じ行動、つまり帝国主義的行動をとり、列強の利益となる行為をとることで、列強の仲間入りを宣言したに等しいわけです。

 ここにアジアで、ヨーロッパ列強に伍し、共同歩調をとろうとし始めた国が出現し、その国が、世界情勢の一角を決定すべく活動し始めたわけです。さらに、「眠れる獅子」と列強が恐れ進出を遠慮してきた清が、極東の小国日本に破れたという事件は、清の弱体化を列強に完全に暴露してしまう結果を生みました。膨大な人口、広大な国土、豊かな天然資源を持つ清に対し、ヨーロッパ列強は、はばかることなく分割の手を伸ばし始めたのです。

 こうして清への進出を考えた国の一つのドイツは、協商関係をもとうと画策していたイギリス政府に対して、清国における共同干渉を望んでいると申し入れます。ところが迷走外交のドイツは、イギリスだけでなくロシアに対しても、極東における利害は衝突しないため、ロシアに対し共同歩調をとることを考えている、と申し入れました。

 この申し入れを検討すべくイギリスは閣議を開き、日本の要求する講和条約はイギリスの利害に反しないという結論を出し、共同参加には不参加の意思を示します。日本の条約で他国の立ち入りが不可能な勢力範囲が指定されるわけでもなんでもなく、むしろ前述べたごとく、日本行動は列強のために清の市場をこじ開けたわけですから、まずは穏当な態度です。つまり、ドイツはイギリスにはふられてしまいました。

 さてロシアの対応ですが、予定進出先の極東で自己のコントロール外の新たな勢力が登場したことはロシア帝国にとって由々しき事態であり、特に直接的には、李氏朝鮮に日本が勢力を築くことで、日本が将来シベリア鉄道敷設予定地の満州にまで手を伸ばすのではないかという不安と、もし日本が遼東半島の旅順に艦隊を設置すれば、極東で行動しようとするロシア艦隊の邪魔になるのではないかという懸念が発生しました。

 ここにいたってウィッテは日本を危険視し始め、1895年特別会議で、慧眼な彼は日本の行動の遠因はシベリア鉄道着工によるものであることを見抜き、シベリア鉄道敷設の責任者として、鉄道敷設の障害になりかねない日本の南満州へ進出を防ぐべきで、日本が拒否した場合には軍事力に訴えてもよいという意見を述べます。

 当時の陸相ヴァンノフスキーがウィッテ案を支持したため、ここでいざとなれば軍の出動も期待でき、強攻策に訴えることが可能となりました。国内が固まった状態で、死去したニコライ・デ・ギールス外相に代わった、アレクセイ・ボリサーヴィッチ・ロバノフ=ロストフスキー外相がドイツとフランスに、日本に対する共同干渉を働きかけました。フランスには露仏同盟があり、ロシアの極東進出のおこぼれに預かろうと金を貸し込んでいましたから共同干渉に賛成、先ほどイギリスにふられたドイツもロシアの提案に賛意を示します。

 ここに三国干渉が発生し、日本は屈服し、遼島半島を清に返還します(代わりに清の支払う賠償金を追加したのですが)。つまりこの行為により、ウィッテが日露関係を決定的に悪化させたことになります。ここまで踏み込めたのは、この時点ではやはり日本を過小評価していたからでしょう。

 この状況を見て、李氏朝鮮では日本恐るるに足らずと、ミンピ派のクーデターが起こり、親日分子は一掃され、親ロシア派が台頭します。この動きに対抗し、大院君をかついで、日本の三浦公使や、当日は参加できませんでしたが与謝野鉄幹も計画に加わったクーデターが発生、ミンピは惨殺されます。

 こうして朝鮮での日露の関係が緊張したため、衝突を防ぐべく日本とロシアは協定を結び、1896年、小村=ウェーベル覚書および山縣=ロバノフ協定が結ばれ、日本とロシアは李氏朝鮮に対し、同格の立場で関わることが合意されました。

 ウィッテはこうして朝鮮半島における日露の勢力争いに一時的なけりをつけると、あくまで鉄道敷設計画に忠実に、フランスの金融機関の援助を得て1895年資本金600万ルーブル(500両は清側出資)で露清銀行を設立します。そして1896年、ニコライ2世の戴冠式に出席した李鴻章との間で、三国干渉で遼東半島を取り戻した代償および対日戦争における相互援助・協力の約束と引き換えに、満州鉄道建設のための利権に関する仮条約をむすび、同年には正式協定を結びました。

 その内容は、気象条件・技術上の問題点などから工事に困難が予想される、ハバロフスクーチタ間を黒龍江沿いに敷設される予定のシベリア鉄道(別名アムール鉄道)を経由することなく、イルクーツク−チタ間のザバイカル鉄道から、ハバロフスクーウラジオストック間のウスリー鉄道を直結できる鉄道(東清鉄道)の敷設権を清はロシアに与えるというものです。




           紫     : ウスリー鉄道
           濃い緑  : アムール鉄道
           うす青   : ザバイカル鉄道
           オレンジ : 東清鉄道
           黒     : 東清鉄道南満支線






19
世紀のロシアとシベリア鉄道主要幹線
赤丸は当時の主要都市


著作権はありません



 かくして露清銀行は中東鉄道株式会社を設立し、この会社は鉄道沿線の土地の管理権・検察権を与えられました(「中東鉄道建設および経営に関する契約」第6条第2項、正文フランス語「会社ハ其土地ニ関シ絶対的且排他的行政権ヲ有スベシ」)。イギリスの東インド会社、後の日本の南満州鉄道株式会社のやり方そのままですが、このように着々とシベリア鉄道敷設の準備は整えられていったのです。




鉄道付属地における紙幣発行・流通および郵政事業の例





露亜銀行券(発行年不明、露亜銀行とは、北方銀行-1901
と露清銀行-1896、が1910年に合併してできた銀行です)
鉄道付属地で発行・流通させた紙幣。

主なところを訳すと、

露亜銀行
1ルーブル
ハルビン





主なところを訳すと、

(この)臨時紙幣は、1917年まで流通する国家銀行券
(私の註、いわいる正規のロシアの兌換紙幣です)と同様、
立派にハルビン、ハイラル、クアンチュチェンツイの露亜銀行支店と同じく東清鉄道の全現金取り扱い口で受領される。
偽造は法を持って訴追される。

です。





ロシア在中郵便局で使用された切手
КИТАЙ(中国)の文字が加刷されています

清では郵政事業が整っていないとの理由から清国内で
ロシアが郵便局を設置し、ロシアの切手に加刷した切手を
使用しました。

帝国主義時代、ロシアのみでなく列強全体がこんなことを
していました。やりたい放題とはこのことで、
なんとも恐ろしい時代です。


著作権はありません




 さて、三国干渉で清に恩を売った(?)三国は、弱体化した清の前に、三国干渉の見返りをよこせとばかりに遠慮なく勢力範囲を決定します。まず口火を切ったのはドイツです。ドイツ政府は、1896年、ドイツ艦隊を率いて中国を視察したティルピッツ提督(のちの海軍大臣となり、彼のもとで『艦隊法』がドイツ国会に提出され、承認されました。)の意見を採用し、山東半島の膠州湾を租借する腹を固めておりました。そして、1897年ドイツ国籍のカトリック宣教師の殺害事件をきっかけに、ドイツ海軍が膠州に上陸、99年契約で膠州湾を租借させ、山東半島を勢力範囲に設定することを清に認めさせます。

 ところが1896年、ロバノフ=ロストフスキー外相が死去し、デンマーク大使だったミハイル・ニコラエーヴィッチ・ムラヴィヨフが外相に任命されました。ムラヴィヨフ外相は着任早々ですからなにかぱっとすることをしたかったのでしょう、ドイツの行動に刺激されたムラヴィヨフは、ロシアも対抗して旅順を占領すべきだと主張します。ウィッテは、さすがにこれはやりすぎだと反対しましたが、ニコライ2世は最終的にムラヴィヨフの意見を採用し、長崎に停泊していた(極東における不凍港を持たないロシア艦隊の冬の投錨地が長崎だったのです。)ロシア東洋艦隊を、旅順に派遣し占領、1898年遼東半島租借の協約を清に結ばせてしまいました。

 もちろんウィッテとて極東進出には基本的には賛成で、むしろフランスでの起債でまかなった莫大なシベリア鉄道建設費用を回収し、フランスへ借金を返すには、人口・資源が豊富な極東にロシアの権益を設定し、シベリア鉄道を介してヨーロッパロシアと極東での貿易を振興させ、そこから生ずる貨物料などの収入を当てにするしかほぼ道はなく、また、フランスもそういったロシアの極東進出の分け前にあずかるべく金を出したのです。

 しかし、各国の間に十分な外交的根回しをおこない、どこからも文句が出ない形にしておいて行なう政府の対外進出と違い、軍人を主体とする対外進出は単純でストレートですから、周辺各国の不満を買い、結局袋叩きにあって追い出されるパターンが非常に多いわけです。1853年に勃発したクリミア戦争後に関係各国で結ばれたパリ条約などはまさにこのパターンで、ウィッテはこの再来を恐れたわけです。

 フランスも黙ってはおらず、1897年海南島の不割譲を清に認めさせ、1898年にはトンキンとその隣接地域の不割譲、広州湾の租借を認めさせました。

 三国干渉を受けた日本ですが、清国の侵略にはやはり列強と歩調をあわせ、1898年には台湾の対岸にあたる福建省の不割譲を清に認めさせます。

 これまでアヘン戦争の南京条約などで唯一清に権益を持っていたイギリスですが、三国干渉に参加しなかったため、清国の進出に遅れをとり、他の列強が清に押し寄せ既得権が脅かされ始めましたから、すぐさま1898年、清への1200万ポンドの借款と引き換えに、ビルマから揚子江沿岸にいたる鉄道敷設権、揚子江流域の第三国への不割譲権、威海衛の25年租借を清に認めさせました。

 つまり、日清戦争後、弱体化をさらけ出してしまった清は一気に列強に分割されてしまったのです。


   〜 4. 恐慌と社会不安ー革命組織の発生 〜

 この辺で、ロシア革命の立役者の一人、ボリシェヴィキの御大レーニンに登場していただこうと思います。

 ロシア正教に改宗し、世襲貴族に出世したカルムイク人(カルムイク人といえば、モンゴル系の仏教徒です)で、初等教育の視学官の父と、改宗したユダヤ人の医師と、ドイツ・スウェーデン系ロシア人との間に生まれた母をもつ彼は、ヨーロッパロシアとアジアの境にあるヴォルガ河のシンビルスクで生まれました。鉄道は通らず、郵便配達もない、小さな町でした。ケレンスキーと同郷人で、ケレンスキーの両親(父親がギナジウムと女学校の校長)とウリヤノフ家は親交があったということです。

 アレクサンドル3世の時代に兄が処刑された後、首都の物騒な危険思想に息子を被れさせまいと、母の計らいでレーニンはカザン大学に入りますが、学生運動を起こして退学処分になります。母親は息子を革命運動からなんとか引き離そうと、サマラに土地を買って1889年移住します。本人の語るところによると、レーニンがマルクス主義者になったのは1889年だということです。そこでレーニンはペテルブルク大学法学部卒業認定試験を受けて合格し、サマラで弁護士補をやりますが、それでは当然物足りなかった彼は、1893年、革命運動のため、サンクトペテルブルクへ上京しました。

 彼は早速『「人民の友」とは何か−そして彼らは社会主義者といかにして戦うか』という無記名パンフレットを発表します。レーニンは、合法マルクス主義者(マルクス主義を単なる経済学と見なし、革命運動には参加しない一派)の貴族出身のアレクサンドル・ポートレソフらと組み、マルクス主義社の共同戦線を立ち上げようとします。そこで、「労働解放団」と一緒に機関紙発行を行ないますが、すぐに官憲の手入れが入りました。そこで、もっとしっかりした組織作りを学ぶべく、国内のマルクス主義者代表と言うことで、プレハーノフのもとへ党創建のための意見を聞きに、レーニンがスイスへ派遣されます。

 レーニンはパリ、ベルリンなどを回って帰国し、5ヵ月後にサンクトペテルブルクに戻ります。さらに、ペテルブルク大学法学部在学中に学生運動をやり、退学になったマルトフ(本名ユーリー・オーシポヴィチ・ツェーデルバウム)らのサークルも合流し、いよいよ党創建か、という1895129日、レーニンは逮捕され(マルトフも年が明けた189619日逮捕されます。)、1897年にはシベリアへ流されます。流刑先のシュシェンスコエ村では「ロシアにおける資本主義の発達」を書き、これがレーニンのペンネームで発行されました。ちなみにこれがレーニンの名を公に使用した初めてのケースです。







マルトフ
Л.Мартов


本名ユーリー・オーシポヴィチ・ツェーデルバウム
Цедербаум, Юлий Осипович
18731923

メンシェヴィキのリーダー




 そんななか、やっとこさ1898年、マルクス主義に立脚したドイツの社会民主党をお手本に、機関紙「ラボーチャヤ・ガゼータ」をもつロシア社会民主労働党組織がロシア国内でも作られ、第一回目の大会がベラルーシの、当時はまだ人口9万人の田舎町だったミンスクで開かれました。前年に結成されていたユダヤ人組織「ブンド」の活動家達の手により、ピョートル・ルミャンツェフという政治活動歴のある鉄道職員の間借りする一軒家(現在は博物館となっています。)に、ルミャンツェフの妻の名前の日を祝うという名目でロシア各地から9人の革命家達が集まったのです。

 キエフからやってきたボリス・エイデリマンという人物が議長役をつとめ、「ロシア社会民主労働党」という党名を決定し、綱領は後回しでストルーヴェが執筆した宣言を出しました。しかし、当時シベリア流刑を食らっていたレーニンは不参加で、さらに秘密警察長官ズバートフがすでにこの大会を探知しており、出席者全員が当日の帰宅時に警察により逮捕されてしまいます。さらに全国で500人近い検挙があり、組織は壊滅します。

 こうして共産党ソ連の成立は、ベラルーシから始まったわけですが、100年近く先走ってしまいますと、1991年、ゴルバチョフ・ソ連大統領への保守派のクーデターの後、一気に実力者とのし上がったロシア共和国大統領エリツィンのイニシアティヴで、ベロヴェージ会談が開かれます。ベラルーシ西部に広がる世界遺産ベロヴェージ原生林の会場で開かれたこの会議には、ロシア共和国大統領エリツィン、ウクライナ共和国クラフチューク、ベラルーシ共和国のシュシケヴィチ・ベラルーシ最高会議議長が出席しました。もともと、シュシケヴィチ議長が新連邦条約の趣旨をエリツィン大統領に問いただす目的で開催されたこの会議で、ソ連邦の三大共和国は、突如ソ連の消滅と独立国家共同体(СНГ)の創設を宣言し、これに他の共和国も追随して旧ソ連の崩壊が決定付けられました。

 つまり、ソ連の誕生と崩壊は、奇しくもどちらもベラルーシで起こったのでした。

 さて、刑期を務め、1900年ペテルブルクへ舞い戻ったレーニンですが、プレハーノフ、マルトフらのマルクス主義者らで統一戦線を作り上げるため、ドイツ社会民主党の援助を得て、ミュンヘンに編集局を置き、ライプチヒで印刷を行なったマルクス主義者の機関紙、デカブリスト詩人のオドエフスキーの詩句から名付けた『イスクラ』(トロッキーなどが投稿していました)の発行を開始します。

 ここにきてレーニンは、一体どういう党組織を作るべきか考え始めました。彼の考えは、ザイチュネーフスキーのロシア・ジャコバン主義を理論化したトカチョフに影響を受けたもので、ザイチュネーフスキーみずからが1862年に印刷した彼のパンフレット、「わかいロシア」によりますと、

 ー「政府の先頭にたつ革命党は、革命が成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制を確保せねばならぬ。それによって、経済的、社会的生活の基礎をできるだけすみやかにつくるためにである。独裁権力を保持して何者にもたじろいではならぬ。総選挙も政府の影響下に行なって現体制の護持者を入れてはならぬ。」ー

 革命党が共産党で、政治・経済体制が、党の政治支配・計画経済なら、この考えが現実化した場合、それはソ連にほかなりません。さらにレーニンは、「何をなすべきか」を執筆し、党を率いる人間が、どういう人々であるべきかをのべます。労働者階級はみずからでは労働組合しか作れない、社会主義を実践に移すためには、その教義を理解し、作り出すことのできる社会主義的インテリが必要である。さらに労働者は日々の仕事に追われるため、革命に全てを捧げるのは難しく、革命に全てを捧げた革命家のみが革命を実現できる。こういった革命家のみで集まった革命党が、実際に革命を起こすことができる。党は革命エリートの集団であり、革命成功のため、上部の統制に服せねばならない、といった調子です。

 この動きに呼応してだんだんと革命組織が誕生しました。まずは、政治テロ一本槍で皇帝アレクサンドル2世まで暗殺した「人民の意志」の流れをくむ、エスエル党(СР, Партия Социалистов-Революционеров)が現れます。1901年ゲルシューニ、マリヤ・セリューク、アゼフらが集まって結党されました。彼らは機関紙『革命ロシア』を通じて全ての社会主義者と革命家に結集を呼びかけたのです。さらに、「人民の意志」の流れをくむだけあって別動隊として政治テロ専門の「戦闘団」を設立し、この戦闘団はのちすさまじい働きを見せます。

 さらに1902年にはシュトゥットガルドでストルーヴェが主幹の政治雑誌『解放』が創刊されました。この雑誌の支持者が集まり、モスクワ大学の歴史学教授、ミリューコフ(後の臨時政府首班)が中心となり、自由主義的地主と社会主義から転向したインテリからなる解放同盟なる政治秘密結社を設立し、ロシアを専制から解放するということを目標にします。

 ともかくこうして1903年、ロシア社会民主労働党の第二回大会、事実上の結党大会がブリュッセルで開かれる予定でしたが、ベルギー警察の介入によりロンドンで開かれます。

 さて、この大会では、レーニンのあまりに過激な考え方が問題となり、党の規約に関する討論ではマルトフ派が勝利しましたが、組織自治の要求を拒絶されたブンドが途中退場したため、後半の人事面については中央委員をイスクラ派で占めることで、レーニン派が勝利しました。そのため、大会でのレーニンの「われわれは多数である、多数派である!」の演説から(実際はボリシェヴィキの方が圧倒的に少数派なのですが…)、レーニンを支持する党員がバリシェヴィーク(Большевик)、マルトフを支持する党員がメニシェビーク(Меньшевик)とよばれます。この辺はいかにもロシアらしいと思うのですが、つまり、結党大会でいきなり内部分裂を起こしてしまったわけです。

 ちなみに後のレーニンの指導下の共産党の幹部達の去就ですが、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンらはボリシェヴィキに属し、トロッキーはメンシェヴィキに属しました(もっともトロッキーは1905年にメンシェヴィキを離脱し、サンクトペテルブルク・ソビエトの地下指導者となりますが逮捕され、シベリア終身刑を宣告され護送中脱走し、ウィーンへ亡命して『プラヴダ』を創刊します)。スターリンは東シベリアで服役中でしたが、やはりボリシェヴィキを支持します。

 メンシェヴィキは、ロシアはいまだ資本主義化しておらず、プロレタリア革命の前段階としてのブルジョア革命が必要だと考えていたので、ブルジョアが権力を奪取するのにはそこまで抵抗はありません。しかし、レーニンは、事態は既に武装蜂起の段階まで来ていると考えていました。メンシェヴィキの領袖マルトフは、労働者階級による労働者階級の解放というマルクス主義の王道を信じていましたが、レーニンは革命エリートによる政権奪取、これによる労働者階級の解放を奉じていました。

 たしかに、レーニンの方法がロシアで成功したのは、さもありなんと思います。極少数の、本当に超人的な人物が、大多数を引っ張っていくエリート方式こそ、まさにロシアの方法そのものですから。

 レーニンは「イスクラ」編集部を押さえようとして逆に編集部から追われ、「在外社会民主主義者同盟」をボリシェヴィキにのみもうとして失敗し、さらにボリシェヴィキの挽回を狙ってもう一度党大会を開こうとして失敗、国外の社会民主主義は、ロシアの社会民主主義の分裂を憂い、ドイツの社会民主党のカウツキー、これまたドイツの社会民主党のローザ・ルクセンブルクなどは「イスクラ」でレーニンを非難します。

 こうして四面楚歌となったレーニンですが、ロシア国内にアレクサンドル・ボグダーノフなる医者が現れ、レーニンがスイスで新聞を編集し、ボグダーノフがロシア国内のボリシェヴィキをまとめ、ボグダーノフと仲のよいゴーリキーの出したお金でボリシェヴィキ派の新聞が発行できる運びとなりました。レーニンは喜び、190515日、「フピリョート」なる新聞を発行します。

 アレクサンドル1世の時代、ロマノフ王朝の絶頂期に結成され始めた帝政打倒の秘密結社は、体制内部の人々の集まりでしたが、この時代、ストライキなどを通して国民の圧倒的多数を占める一般民衆とつながることで巨大な力を発揮し、実際に現体制をひっくり返しかねない勢いを持ち始めたのです。


  〜 5. 極東での鉄道対立ーイギリス vs. ロシア 〜

 ここで、鉄道を使ったイギリスとロシアの対立を見ておこうと思います。イギリスは1840年のアヘン戦争、1856年のアロー号戦争などを通じてすでに清に進出し、揚子江流域に広大な租借地を設定していました。

 1890年、李鴻章がロシアの満州進出に対する対策として、イギリス人技師チャールズ・キンダーに命じて山海関から琿春までの路線敷設の調査を行ないます。この調査をもとに、清は鉄道ゲージをイギリスの標準軌(4フィート8インチ半)に決定し、清国鉄路総公司を設立して北京ー奉天間の京奉鉄道の敷設に乗り出します。イギリスはロシアの勢力が極東北部に伸びる前にこれを抑えようとし、清はイギリスに京奉鉄道を敷設させることでロシアと衝突させ、おたがいがにらみ合って動けない状況を作り出そうという狙いからなされた判断でした。

 シベリア鉄道のゲージは5フィートですから、これは奉天以南の鉄道はイギリスが仕切るということを示しており、ロシアが予定進出先とみていた満州にまでイギリスの手が伸びてきたと察知したロシア側は、アレクサンドル3世の時代鉄道着工宣言を出し、1891年にはシベリア鉄道の本格的な敷設に入ります。

 そしてウィッテがシベリア鉄道敷設の責任者となり、先走ってしまいますと、彼の力で1891年の着工からわずか10年後の1900年には、バイカル湖およびスレチェンスクからハバロフスクまでの区間を流れるアムール川部分は、船を使えば残りは全て鉄道でつながるという驚異的なスピードで工事が進行しました。

 さらにロシアは1896年、ニコライ2世の戴冠式に出席した李鴻章との間で満州鉄道建設のための利権に関する仮条約をむすび、同年には正式協定を結んで東清鉄道敷設権を
ひそかに得ます。1897年には、旅順占領とあわせて東清鉄道の駅ハルピンから旅順までの東清鉄道南満支線の敷設権を要求し、サンクトペテルブルクでムラヴィヨフと駐露清国公使許景澄の間でこれが追加協定第三条で認められました。

 これで、シベリア鉄道が完成すれば、ペテルブルクから旅順まで一気に一つの路線で結ばれることにます。1898年のロシアが清国と遼東半島の租借を要求している時期に、このロシアのあまりにすばやい対応の前に、イギリス植民相チェンバレンから、ロンドンの加藤高明駐英公使に対し、非公式の日英同盟の打診がなされるのです。

 このロシアの軍官一体となった鉄道敷設のスピードの前にイギリスも手をうつ必要を開始し、イギリス香港上海銀行が、最初は引き出し超過ということで断った清国鉄路総公司むけの融資を見直して、借款契約を結ぶ交渉に入ります。

 正直ロシアに比べてイギリスの動きがどうも鈍く、この辺りからヨーロッパ勢力の弱体化が起こり始めたのだろうか、と感じられるところですが、ともかく借款契約が正式に結ばれてしまえば、京奉鉄道は完全にイギリスの権限ということになってしまいますから、そうはさせじとロシアの妨害が入ります。

 ロシアは清側に圧力をかけ、キンダー技師を更迭し、ロシア人技師を雇用するよう要求し(こうすることでゲージをロシア標準の5フィートにしてしまえばシベリア鉄道から一気に北京まで列車を乗り入れることが可能です)、また追加協定第三条の、東清鉄道付近の鉄道建設については、ロシア以外に許可を与えないという項目に抵触すると抗議します。

 こうしてイギリスとロシアの間で揉め事が起こり、すったもんだの挙句、イギリスと清の間で京奉鉄道借款契約が結ばれ、英露鉄道協定が成立し、ロシアはイギリスに京奉鉄道の管理権を放棄させるが既得権は認め、イギリスはロシアの中東鉄道の敷設を認める、ということが決定されました。

 しかしロシアは諦めず、奉天から北京まで、京奉鉄道と平行に走る中東鉄道南満支線の計画が練られ、さらに1899年には義和団の乱が発生し、義和団は19008月北京に入ります。「扶清滅洋」をスローガンにかかげたこの騒乱は、中国のナショナリズムの芽生えとも言うべきもので、北京の列強公使館は包囲攻撃を受け、北京駐在ドイツ公使ケッテラーなどが殺害されました。この反乱の勢いを見た清国政府は義和団側にたって列強に宣戦布告し、義和団は列強の補給線を絶つため東清鉄道と京奉鉄道を全線に渡って破壊し始めます。

 そこでロシアは鉄道を守るため北満州のシベリア鉄道支線、中東鉄道沿線沿いの土地の占領し、さらに公使館員を救うため列強と連合して出兵、京奉鉄道の天津駅で義和団と戦闘状態に入ります。義和団は京奉鉄道をほぼ全線に渡って破壊していたため、ロシア人技師が鉄道の修理を開始しました。

 義和団および清国政府に対し、八大列強(オーストリア=ハンガリー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、アメリカ合衆国)が連合軍を組織します。イギリスおよび日本はロシアの勢力が鉄道を通じて北京に伸びるのを警戒してロシア人技師による鉄道修理に反対しますが、ロシア・フランス・ドイツはイギリスの世界への勢力伸張を苦々しく思っており、さらに「光栄ある孤立」政策のおかげで孤立したイギリスにくらべ、イギリス以外の国はどちらかというと反イギリス的行動で足並みを合わせ、さらに極東でシベリア鉄道の工事をしているロシアが鉄道技師を送りやすいということもあって、結局列強連合軍司令部はロシアの軍事的管理権を承認しました。

 列強が北京を占領して義和団を壊滅し、残党掃討のため山海関を占領するなどして転戦しているうちにロシア軍は京奉鉄道のほぼ全線を占領してしまいました。さらに列強連合軍司令官として着任したドイツ人ワルデルゼーが、ロシアの京奉鉄道ほぼ全線の管理権(楊村ー新民屯間について)をみとめます。

 この決定についてとても承服できないイギリスは外交的
圧力で徐々に京奉鉄道の返還を認めさせ、1901年北京議定書が成立し、義和団の乱が法的にも完全に終息してからは、露英協定が結ばれ、なんとか京奉鉄道は清の(つまりイギリスの)手に戻ってきました。

 このロシアに華北への進出にイギリスが非常な警戒心をつよめました。しかし、時は南アフリカで、トランスヴァールの大統領、クリューガーのイギリスへの最後通牒により始まったボーア戦争(18991902年)が勃発しているさなかです。もともと植民地が広大すぎるイギリスの兵力不足は慢性的なもので、アメリカ独立戦争の時もヘッセン・ハナウ家のヴィルヘルム公(フリードリッヒ大王の息子)から傭兵を雇い、これらのドイツ傭兵隊をアメリカに送り込んだぐらいですから、とうてい極東に大軍を送り込めるような余裕はありません。

 フランスを軍事力に裏打ちされた外交で押さえつけ、スーダンを獲得したファショダ事件以後、エジプトからケニアまでを連結し、ケープ植民地(南アフリカ共和国)からローデシアを結び、あとはドイツ領東アフリカを手に入れれば、カイロからケープタウンまで一気にイギリス領で連結できるイギリスにとって、南アフリカ連邦内のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国は目の上のたんこぶ的な存在だったのでしょう。因縁を吹っかけ、相手に戦端を開かせましたが、ボーア人(17世紀のオランダ人植民者の子孫)のゲリラ作戦に手を焼いていたのです。

 すると、極東問題は外交で解決するしかありませんが、露仏同盟があるのでフランスの協力は無理です。かといって、アメリカ合衆国、ちなみにこの国は、ハワイ(1898年ハワイ王国を併合)→グアム(1898年アメリカ・スペイン戦争で獲得)→フィリピン(グアムと同様)と恐ろしい勢いで太平洋の制海権を握り、極東に進出しましたが、すでに極東の清国が列強に分割された後でとても割り込む隙がなく、やむなく門戸開放・機会均等(ある一国が特別の利益を得ることが出来る「勢力圏」を認める列強の政策からは真っ向から対立します)を訴えていました。このアメリカと手を組むのも、アメリカはそもそも清国に権益がありませんし、モンロー主義もあって無理、ということでイギリスが同盟国として選べる国は限られてきます。


    〜 6. 日露戦争前夜ー渦巻く外交戦略 〜

 そこで、華北からのロシア進出を防ぎ、ひいてはイギリスの揚子江流域の利権を守るための緩衝地帯として設定していた縄張り、京奉鉄道に手をつけたロシアの進出を防ぐため、これは何か手をうたねばならないとイギリスは、ドイツを手を結ぶべく画策します。ドイツは山東省に権益を設定していましたから、ロシアの華北進出にイギリス同様に脅威を感じており、自国の権益を守るためにイギリスと歩調をあわせるだろうというのがイギリスの読みでした。

 そこでドイツに接近し、1900年、イギリス・ドイツ両国の間で揚子江協定を結びます。内容は、全清国領土に対して、義和団事件を利用して領土的野心をとげる国があれば、自国の権益を守るためにとる処置について両国はあらかじめ了解する、ということで、要するに義和団事件を利用して満州に権益を拡大しようとするロシアを狙い撃ちした協定で、義和団事件に出兵した各国に対しこの協定の参加を勧告する、条件もこの協定には付随していました。

 これに飛びついてきたのが日本です。後にも述べますように、ロシアの進出に恐怖心を抱いていた(第三国からすれば少々過敏ですが)日本はこの協定に加わることで、あわよくば日本・イギリス・ドイツの三国同盟を作り、ロシアに対抗しようと画策していたのです。早速加藤高明外相がこの協商に加わることを東京のイギリス公使に通達しました。

 ところが、この協定にはドイツが及び腰の姿勢を見せます。確かにドイツは山東省を確保していましたが、正直満州の権益まで狙っておらず、当時のドイツ宰相ビューロウは、議会で「この州(満州)の運命は、ドイツにとってどうでもいいことである」と言明して逃げを打ち、結局この協定を結んだイギリスの意図はもろくも崩れ去りました。

 イギリスも落胆したでしょうが、さらにあせったのは日本です。と、ここで、ドイツ大使館参事官エッカルトシュタインから、日本の林公使へ日英同盟を提議してはどうかという提案がありました。そこで、加藤高明外相が、林公使に個人の資格でイギリスに同盟の意向があるかどうか打診させます。

 さて、当時のイギリスは第3次ソールズベリ内閣でしたが、本人自身が「光栄ある孤立」の信望者でしたから悩んだでしょうが、かつて黒海方面であくまでオスマン・トルコの側につき、同盟を結んでロシアにけしかけさせたのと同様、極東では日本と同盟することを決心します。日本側では伊藤博文がイギリスよりむしろロシアと結ぼういう動きがあるなど多少のもたつきがありましたが、結局日本をロシアにけしかけるべく、ラウンズダウン外相と林公使の間で1902年には日英同盟が結ばれます。

 さて、ロシア軍の北満州のシベリア鉄道支線、中東鉄道沿線の土地の占領ですが、これはイギリスやアメリカには極めて不愉快な事件であり、日英同盟でイギリスが露骨にロシアに対抗する姿勢を示したこともあり、清との間にロシアは最終的に1903年の926日までに撤退するとの条約を結びました。これに関し、かつてのトルキスタン総督、いまや陸軍大臣となったクロパトキンが軍側から戦略上の意見として、ロシアの勢力圏が確保されるまでは満州に兵を残すべきだと主張します。自分が極東のロシア進出の引き金だったとはいえ、さすがにことが進みすぎたのを止めようとしたウィッテ蔵相、およびイギリスの強い姿勢を恐れたラズムドルフ外相らに反対されましたが、結局クロパトキンは彼らの説得に成功し、撤退期限が過ぎてもロシア軍の駐留期間がずるずるとのびることになります。







アレクセイ・ニコラエビッチ・クロパトキン
Куропаткин, Алексей Николаевич
1848-1925

陸軍大臣、満州軍総司令官




 揚子江協定は空振りに終わりましたが、1902年、日本は次なる外交上の一手、日清追加通商条約の交渉を開始し、清に対し満州の大東溝および奉天の開港を迫り、1903年には調印にこぎつけました。これによって日本は、清の満州地域に対する発言の条約的根拠を得たことになります。この条約をてこに、日本は満州の門戸解放を要求し、また門戸解放路線で主張を続ける限り、日本と歩調を合わせてまったく同じ日に米清追加通商条約を結んだアメリカの支持も受けられることになります。日本外相小村寿太郎による、周到といいますか、苦心惨憺といいますか、ともかく外交上の布石は着々と打たれていたのです。

 さて、ロシア側の状況ですが、これまでシベリアおよびシベリアより更に東にある極東方面はシベリア鉄道が通過する地点ということで、鉄道工事の責任者ウィッテがこの地域の政策もまかされていましたが、大蔵大臣がアジア政策を兼任というのはいくらなんでもまずかろうということで、極東太守制なる制度がつくられます。これは一方でロシアが満州で植民地的経営を行なうということを内外に示したということです。

 ところがこの制度の設立は内相プレーヴェおよび対日強硬派の枢密顧問官ベゾブラーゾフ(鴨緑江木材会社の責任者で、満州の利益集団の代表者)による蔵相ウィッテ追い落とし策の一環でもあったため、極東太守に旅順港司令官アレクセーエフ(アレクサンドル2世と愛人の間の子で、対日強硬派ベゾブラーゾフと海軍少将アバザの操り人形です。)が任命されると、確かにロシア経済によい刺激を与えたかも知れないが、もともとシベリア鉄道そのものの収益性の悪さはやっぱり問題になっていたのでウィッテは蔵相を解任されます。さらに太守を監督する極東委員会が設置されると、皇帝が議長、副議長にプレーヴェが任命され、極東問題に関してはプレーヴェがイニシアティブを握ることになります。ウィッテの後任にはココツォーフが就任しますが、ウィッテはその後も政界の元老格としてロシア政界に影響を与え続けました。

 シベリア鉄道敷設はロシアの悲願でした。この時期から100年後の現在(2004年)でもシベリア鉄道を大韓民国の釜山まで延長し、ヨーロッパとアジアを一つの鉄道で結ぼうという試みはプーチン政権の今でも続いています。広大すぎる国土を一つに束ね、独立採算ではやっていけそうにないシベリア・極東に鉄道を通じて物資を行き渡らせることは、税金を徴収している以上、施政者としての責務であり、この地域のインフラ整備の手薄さによる、中央に対する怨念と言うほうが適切な感情は、現在でも、特にシベリア出身者から私自身も度々耳にしたことがあり、かならず処理せねばならない事項でした。

 ロシアの極東における軍事行動を検討してみると、そのほとんど全てが、シベリア鉄道保全とイギリスとの京奉鉄道を巡る対立を主目的としたもので、ロシアはイギリスと対立しているつもりはあっても日本と対立しているつもりはなかったし、シベリア鉄道敷設の妨げにならない限りは日本のことはほとんど気にしていなかったのが正直なところでしょう。日本海軍の仁川港におけるロシア艦隊への発砲などまさに寝耳に水の出来事です。

 日本があれほど固執した李氏朝鮮からは基本的に手を引き、親ロ派のミンピが惨殺された前後も、ロシアに対し高宗からの軍事介入要請があったにもかかわらず、自主的な行動はほとんど行なっていないことがそれを示唆しているように思えます。

 しかし、いくらロシアとイギリスの極東での激突に、日本は無関係だとロシアが思っても、「巨像がぶつかり合うと下草は踏み潰される」というのが日本の言い分です。さらに日本にとってシベリア鉄道とは、たしかに極東に物資を行き渡らせるための輸送網が最大の目的だという話は理解できますが、いざとなった時のシベリア鉄道の側面、ロシア軍を極東に大量輸送する軍用鉄道にしか見えませんでした。よく切れる包丁は、魚や野菜を切ったりと大変役に立ちますが、使い方を誤れば人が死んでしまいます。シベリア鉄道のロシアにとっての平時の必要はわかっても、戦時に使用された時の恐怖が大きかったのでしょう。

 しかも、日本を脅す気はほとんどなかったのかもしませんが、ロシアの極東での活動は日本を痛く刺激しました。満州でのロシア軍の行動は、ロシアにとって見ればдальневосток、つまり遠い東での出来事ですが、明治政府にとっては本国の至近距離で起こった初の列強の軍事行動です。しかし、きめの細かい丁寧な作業と得意とする、裏を返せば物事に過敏であり、当時はまだいつ踏み潰されるかわからない弱小国に過ぎないことを、どこよりも自国政府が痛感していた日本にとっては、満州にロシア軍が居座るという状況は、正直耐えがたい重圧であり、いずれこの矛先が満州→李氏朝鮮→日本とやってくるのではないか、と思ったことでしょう。

 また、日本国内での、ロシアとの関係が風雲急を告げるなか、日本政府はロシアの行動に関する資料を徹底的に調べたにありませんから、ロシアの20年前の軍事行動、アレクサンドル2世の時代のトルコマン制圧も参考にされたに違いありません。このトルコマン制圧行は軍事行動に先立って、カスピ海沿岸に設けた軍管区で、兵站輸送用に鉄道を敷設し、カスピ海の港を整備し、蒸留装置を作って海水から飲料水をとる設備を作りました。この入念な準備は、この中央アジアにおける最大の戦闘、ケオック=テペの戦いの前に行なわれ、この戦いを指揮したスコベレフ将軍の指揮下で当時大佐として戦ったのがだれあろう、この時代のロシア帝国の陸相クロパトキンです。

 極東において旅順港を整備し、シベリア鉄道を敷設するロシアの行動は、現時点の日本政府にとっては満州制圧の下準備にしか見えなかったでしょう。

 正直、ロシア側からすればシベリア鉄道を敷設したかっただけ(オプションとして満州にも色気がありますが)と断言してかまわないと思われ、この時点で日本方面に関して領土的野心があったかどうかについてはきわめて疑問です。広すぎる国境線、海を越えた統治の難しさもあり膨大な国境警備郡駐留費に耐えかねアラスカを手放した例もあり、当時のロシアは何が何でも(利益にならなくても)極東に領土が欲しいという方針ではありません。日本を占領したところでただでさえ手の回らない極東統治の手間が増えるだけです。

 ロシアにとって日本は、すくなくともこれまでは、トルコマンのように隊商襲撃と略奪で生計を立てており、治安を乱し貿易ルートを攪乱する内憂ではなく、またイギリスのようにユーラシアから抜け出ようとするロシアを執拗に封じ込めようとする相手でもなく、ポーランドのように国境をはさんで何世紀にもわたって戦いを繰り広げた宿敵でもありません。そもそも、これまでは衝突にいたるための関係そのものがなかった、といったところでしょうか。

 しかしロシア側も、日本が日英同盟を結んだ瞬間から、これは極東のオスマン・トルコだなと確信したはずです。かくして両国の緊張は高まり、日本側からのまたも宣戦布告のないまま1904122日、仁川港停泊中のロシア艦隊への発砲事件(この先制奇襲攻撃の10日後に宣戦布告がロシア政府に通達されます、ただし、1907年のハーグ条約以前は、宣戦布告は不当とはいえませんでした。)によって、本当に余談ですが、私の母方の祖母の父、つまり私の曽祖父も出征した日露戦争が起こったのでした。

 28日、ニコライ2世臨席の御前会議が開かれました。ニコライ2世の日記にその様子は残されていませんが、陸軍大臣クロパトキンのメモに記録がありまして、そのときの会議の出席者はニコライ2世、海軍総裁アレクサンドル大公、海軍大臣アヴェラン、外務大臣ラムズドルフ、陸軍大臣クロパトキン、アバザ海軍少将(対日強硬派のベゾブラーゾフの手下)です。ちなみに極東太守アレクセーエフは23日付けの電報で仁川などの彼の指揮下の艦隊に断固たる処置をとらせるよう進言していました。

 皇帝は全員の率直な意見を求めたところ、外相のラムズドルフは戦争を避けるためにあらゆる措置をとるべきだ、と発言。アレクセイ大公と陸軍大臣クロパトキンは満州への戦争拡大を避けるためにソウルより北方への日本軍の上陸を認めてはならないと発言します。海軍大臣アヴェランはロシア太平洋艦隊が日本海軍を攻撃する十分な戦力を持っていると考えていたため(これは過小評価でしたが)、御前会議での結論は、極東太守アレクセーエフに以下の電報を発することに決定したのです。

 ー「日本軍がロシア軍に軍事行動を開始しないとしても、アレクセーエフは朝鮮半島西岸では38度線以北への日本軍の上陸を認めてはならない。南朝鮮とソウルへの上陸を認めてもよい。また朝鮮半島東岸への上陸も認めてよい。さらに日本軍が北朝鮮へ進撃しても、直ちに軍事行動の開始と考えないで、それを認めてよい。」ー

 外相が戦争に反対だった点でも、日本の軍事行動が朝鮮半島内部に限定されるとしか考えていない点でも、ロシア側が戦争を画策していなかったのは濃厚です。もし前々から戦争を考えていたなら、もっと進んで戦争計画を練っていたのなら、ここまで反応が鈍いのは不自然と考えるのが普通の人の感覚でしょう。

 ちなみに1904711日、ウィッテを追い落として極東政策のイニシアティブを握った内相のプレーヴェがエスエル党戦闘団のサゾーノフらに暗殺されてしまいます。後任にはスヴャトポルク=ミルスキー公爵が着任しました。

 こうして日本とロシアが戦闘に突入してしまったわけです。が、日英同盟は、他国が同盟国の一方に攻撃を仕掛けてきた場合、残りの同盟国が援助のため参戦する義務がありました。ですから、万一フランスが露仏同盟のからみでロシアに参戦するようなことなればイギリスも参加しなければなりません。本格的にフランスと事を構えるようなことになればこれはただ事では済まず大変なことになります。フランスも全くおなじような危惧を抱えていましたから、イギリス、フランスの利害は一致し会議がもたれました。

 そこで1904年4月8日、駐英大使ポール・カンボンとラウンズダウン外相の間で植民地問題に関する協定条約が調印され、これにより両国の全ての植民地紛争を解決し、有効関係を打ち立てました。世にいう英仏協商で、日本、ロシアがおのおのの同盟国に参戦を要求しても、この要請を拒絶できる条約的根拠が出来たわけで、これにより、極東のローカルな紛争のためにわざわざ英仏両大国がぶつかる危険性は消えました。いやはや、ロシア、日本にとってなんとも頼りにならない同盟国です。

 ちなみにこの協商で、イギリスの、エジプトにおける優越を認める代わりに、モロッコにおけるフランスの優越が認められました。この時の取り決めが、のちのアルへシラス国際会議につながっていきます。


      〜 7. 日露戦争ー進行状況 〜







出征前の日本兵(野砲部隊)


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 日本軍の作戦プランは、陸軍は第一軍を編成し、まずは朝鮮を占領、ついで満州を主戦場とし、第二軍を日本軍の主力として編成し、ロシア野戦軍主力と対決するためリネヴィッチ中将率いるシベリア第一独立兵団のこもる遼陽に進軍、ウスリー川方面を支作戦地として独立第八師団でウラジオストックを攻略し、ロシア軍を牽制する、といったものでした。

 海軍は満州に展開する陸軍への補給路を確保するため、ウラジオストックと旅順にいるロシア艦隊を撃滅あるいは封鎖する、というものです。艦隊は戦時編成を取り、第一艦隊は東郷平八郎中将、第二艦隊は上村彦之丞中将、第三艦隊は片岡七郎中将で、第一艦隊と第二艦隊が連合艦隊として行動し、連合艦隊司令長官は東郷平八郎が兼任する、ということになりました。

 これにしたがって、陸軍側は第一軍(黒木為髑蜿ォ司令官、歩兵三個師団)が仁川から上陸します。朝鮮にはミシチェンコ(いかにもコサックのウクライナ人らしい名前です)少将の騎兵旅団が展開していましたが、ロシア軍が遼陽に兵力を終結させるため騎兵旅団が引き払ったこともあり、第一軍ははやばやと目的を達しました。そして連合艦隊は旅順港へ夜襲をかけ(ほとんど損害を与えらませんでしたが)、ついで旅順港の入り口に汽船をしずめ、旅順のロシア艦隊を港に閉じ込めようという閉塞作戦を三回実行します(これもうまくいきませんでした)。




日露戦争における日本軍発行の軍票









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 すると、ロシアは海軍は旅順とウラジオストックの艦隊をあわせて太平洋第一艦隊と改称し、新たにバルト海で太平洋第二艦隊(いわゆるバルチック艦隊と呼ばれる艦隊です)を編成し、ロジェストヴェンスキー少将を提督として、極東に回航するということが決定されました。

 この太平洋第一艦隊と太平洋第二艦隊に挟み撃ちにされてしまえば、日本艦隊は数の上から圧倒的不利でとても勝ち目はないだろうということになり、当初の予定にはありませんでしたが、海軍の要請でできる限りの短期での旅順攻略が陸軍の重要な戦略目的となり、ウラジオストック攻略は無期延期となります。

 つづいて第二軍(奥安鞏司令官、歩兵三個師団、砲兵一個旅団)は大連付近の塩大澳から上陸し、南山を攻撃します。奥司令官の攻撃貫徹命令で南山を攻略が成功し、ロシア軍は旅順方面に撤退し、大連を占領できました。

 ウラジオストックから遊撃し対馬海峡・御前崎沖などに出没して日本側をおおいに悩ませたウラジオストックのロシア艦隊を、第二艦隊はなかなか補足できませんでしたが、蔚山沖で主力艦三隻を撃沈し、やっとこの艦隊の活動を止めることに成功します。

 ついで乃木希典大将を司令官とする旅順攻略専用の第三軍が編成され、旅順攻略を第三軍に任せた第二軍は遼陽をめざして北上を開始します。第二軍が営口付近を占領した際、第一軍と第二軍上陸地点の中間地点に上陸させてあった独立第十師団が接近したため、後備第十旅団、第二軍からもらいうけた第五師団をあわせて第四軍(野津道貫司令官)を編成し、お互い連携をとりつつ北上します。

 この時期に満州の四軍を統括するため、満州軍総司令部が編成され、大山巌総司令官、児玉源太郎総参謀長、山縣有朋参謀総長が決定されます。こうして四軍の指揮系統を統一しておいて、第一、第二、第四軍の遼陽の攻撃と第三軍の旅順攻撃の同時発動(つまりは日本陸軍の総攻撃)を予定し、戦争は山場へ向かいます。

 また、日本は朝鮮を事実上軍事的に支配下に置き、日韓議定書を結んで、韓国を強制的に日本の側につけます。そして第一次日韓協約をむすび、植民地化の地ならしを行ないました。

 旅順には要塞司令官ステッセリ中将がこもっていましたが、堅固に要塞化された旅順は第三軍の正面強攻(一日でも早く落せということなので、強襲速攻占領を目的とした二竜山保塁と東鶏冠山北・南保塁の間への突撃)をまったく受け付けず、日本側の第一回総攻撃は死傷者15800人という大損害を受けて失敗します。

 第一、第二、第四軍の一斉攻撃による瀋陽会戦は、豪雨により旅順総攻撃と同時には行なわれませんでしたが、ともかく攻撃は行なわれ、日本軍13万と、満州軍総司令官に任命されたクロパトキン率いるロシア軍22万と、両軍の主力が激突した近代初の大会戦が行なわれました。日本軍の第二軍・四軍が加わった戦闘は互角に続きましたが、第一軍は前進を続け、太子河をわたりロシア軍の背後を突くような動きをとりましたので、クロパトキンは南部戦線を縮小させ、主力を引き抜いて第一軍に向かわせようとしましたが、この行動でロシア軍全体が混乱に陥り、クロパトキンは撤退命令を出し、ロシア軍は瀋陽から撤退します。

 両軍はそれぞれ約2万の死傷者を出しましたが、どちらも相手に決定打を与えたとはいえず、作戦の所期目的を達成した日本は、当座は第一、第二、第四軍は弾薬物資の補充を待ち、旅順の攻略に全力を注ぐことになります。

 旅順の守りが日本側の予想を越えて堅いため、もともと太平洋第二艦隊の日本襲来にそなえるため、東京湾要塞、芸予要塞、下関要塞に設置されていたもので、とりはずして朝鮮の巨済島などにすえつける予定だった28センチ榴弾砲を、旅順要塞で使用することが決定されました。さらに満州軍総司令部は旅順要塞そのものは落ちなくても、旅順付近の203高地を占領し、そこを観測点として28センチ榴弾砲で旅順にこもる艦隊を狙いうちにすればそれで事足りるのではないかと作戦の方向転換を第三軍に勧めます。

 さて、この時期ロシア側では兵力が増強され、クロパトキン指揮下の第一軍団、リネヴィッチ中将指揮下の第二軍団に編成されたロシア軍ですが、日本軍が瀋陽で停止している時、クロパトキンは日本軍は損害がひどくて動けないのだと推測し、全軍を挙げた反撃でます。これが沙河会戦で、かなりの激戦となりますが、クロパトキンはまたも撤退を決めました。日本側には25000人の死傷者がで、ロシア側は41473人の死傷者がでました。季節は冬になり、両軍は冬営に入ります。

 と、この時点でとうとうロシアで第二太平洋艦隊の編成がおわり、旅順に向けて出向したという情報が伝わりました。艦隊は北アフリカで二手に別れ、吃水が深い戦艦は南を、小艦はスエズ運河を越えて航行していました。あせる第三軍は、28センチ榴弾砲を使用したものの、203高地攻略はあくまで支作戦とし、正面突破の攻撃をかけますが、やはり失敗し3800の死傷者を出して作戦は終了しました。

 しかし旅順の攻略を急がねばならないというわけで、内地に残った最後の第七師団を第三軍におくり、さらに望台占領を目的とした正面突破の第三次攻撃をかけますが、これまた失敗。そこで、さすがに第三軍司令部は攻撃目標を203高地に切り替え、第一師団に攻撃を命じ、旅順要塞本体にくらべ防備の薄い203高地は28センチ榴弾砲の被害をくらい、一時占領に成功します。が、攻撃の焦点が203高地に移ったことを知ったロシア軍はぞくぞくと新鋭部隊をおくり、山頂を奪い返してしまいます。

 そこで新着の第七師団が再度203高地攻略に送られ、一旦203高地を再占領するも、また奪い返されるのですが、度重なる失敗に、児玉源太郎総参謀長は激昂し、みずから旅順におもむき乃木希典第四軍司令官から司令官代理を認めてもらうと、自ら指揮をとります。

 そもそも203高地は占領寸前でしたし、指揮のよろしきを得た第七師団は三たび203高地の占領に成功、ロシア軍の逆襲も撃退して、121日午後1時占領が確実となります。すぐさま児玉総参謀長は28センチ榴弾砲を移動させ、午後2時には203高地を観測点とする砲撃を開始し、さすがは陸上からの対艦攻撃用に作られただけあって、この28センチ榴弾砲は絶大な威力を発揮し、10日までの間に旅順のロシア艦隊の主力が破壊されました。

 これで任務を達成した日本軍はその後あせって突撃を繰り返す必要はなくなり、地道に坑道をほって要塞壁に爆薬を仕掛けて破壊し、それから突入を開始するという戦法を取ります。これでどんどん保塁が落ち始め、ロシア軍はこのあたりから食料不足、チフス、壊血病などになやまされ始めますが敢闘し、軍首脳の大多数は市街戦をしてでも戦う決意でしたが、市民を巻き込むこと確実な悲惨な市街戦までやる気はなかったのでしょうか、とうとう要塞司令官ステッセリは降伏を決意します。水師営で交渉がおこなわれ、乃木希典第三軍司令官との間に降伏文章が調印されました。


  〜 8. 血の日曜日事件ー1905年革命の始まり 〜

 戦争中なのにも関わらずロシアの国内では革命運動が進展し、つまりは世論がまったくまとまってなかったわけですが、ゼムストヴォー開催が熱心にとなえられていました。ワルシャワではポーランド社会党が警官隊と衝突し、解放同盟は宴会などを開きその席で専制打倒、憲法制定などを訴えていました。

 この状況でガポン神父が登場します。ガポンは1870年、ポルタヴァの農家に生まれ、地元の神学校を卒業し、ゼムストヴォーに勤務した人物です。そこで結婚し、妻から進められて聖職者となり、ポルタヴァ市内の聖職者になりました。ところが妻に先立たれ、ペテルブルクに出て神学大学に入学しますが、大学での教育に飽き足らず、人民へ伝道する決意を固めたのです。サンクトペテルブルクのある教会の司祭になり、福祉活動で一定の評価を得たものの、再婚した妻と婚前旅行をしていたことがばれて免職になってしまいました。







ゲオルギー・アポロノーヴィッチ・ガポン
Гапон, Георгий Аполлонович

ペテルブルク市ロシア人工場労働者のつどい
(ガポン組合)の設立者




 失職してやることがなくなり、しかも神の国での奉仕より、俗界での政治活動のほうが好きだったらしい彼は、合法的な労働運動を行なおうとしたのでしょうか、「警察社会主義」、つまりは官憲のコントロール下における合法社会主義運動を唱えた憲兵大尉ズバートフと面会するなどの活動を開始しました。

 ズバートフは、労働者の運動をなくすには、彼らを扇動するインテリと労働者を切り離し、政府が派遣したスパイ労働者を使って政府御用労働組合を作り、政府と労働組合の両者でシャンシャンとことを運べば、労働者と政府の軋轢は穏健に解決すると考えたようです。ところが、この「警察社会主義」は、むしろせっかく作った組合に社会民主主義者が潜入しストの拠点と化してしまったりしてやっぱりうまくいきませんでした。

 こういうわけで、ズバートフは内相プレーヴェによって追放されてしまいました。一方ガポンですが、彼の方は会員の相互援助を目的とした労働者喫茶クラブの開設に成功します。そして最終的には「ペテルブルク市ロシア人工場労働者のつどい(ガポン組合)」を結成し、当局による規約の承認を経て、19044月、1200人の会員を数えるガポン組合の第一回総会を開催しました。ちなみに設立に要した資金のうち、150ルーブルは警察局、210ルーブルは保安局から出ており、少なくともこの時点でガポンは完全な合法活動を目指していたということがうかがえます。

 もともとこの組織は啓蒙講演・ダンス・コーラスなどの労働者教育が目的であったらしいのですが、時代の風潮には逆らえず、会員の過激な行動に引きずられ、あっという間に急進化します。

 戦争遂行中にもかかわらず、バクーの石油労働者による大規模なゼネストが行なわれていましたが、この動きがペテルブルクにも波及しようとしていましたので、従業員12500人を誇る金属機械工業プチーロフでガポン組合員4人が解雇されました。ガポン組合側はこれを組合に対する攻撃とみなし、解雇された組合員の復職をもとめて陳情しますが、効果がみられないため1905年1月3日ストライキに突入します。

 ストライキで作成された労働者の要求は、当初の組合員の主張だった解雇取り消しをはるかに越え、8時間労働制や最低賃金の制定といった、労働者全体の待遇向上要求にまで発展していたため工場側はこれを受け入れず、さらにこのストライキと要求を聞きつけた他の工場もストライキに同調しました。

 そこでガポンはツァーリに対し嘆願書を作成することになり、会員が集まって冬宮で請願行進を行ない、午後二時に皇帝に嘆願書を手渡そうということになります。抜かりのないガポンは請願行進の前日、皇帝に宛てた嘆願書を内相スヴャトポルク=ミルスキーに届け、行進の許可を当局に求めました。スヴャトポルク=ミルスキーは嘆願書を握りつぶし、特別市長官フロンにガポンの逮捕を命じます。しかしフロンは、それは自分の力の及ぶところではないと断ります。ガポンは追放されたズバートフらを通じて警察との間に強力なコネクションを作り、その力は特別市長官すら押さえられぬほどになっていたのです。怪僧を輩出するロマノフ王朝の末期、ラスプーチンの先祖のような人物がガポンなのでした。

 1905年1月5日の日曜日、信心深い東方正教徒なら、いつもなら教会に行くところですが、ガポン組合員は支部ごとに終結し、ぬかりなく皇帝の肖像画、十字架、イコン、教会旗などを用意し、冬宮めがけて行進が開始されました。






警備兵の列




 ー「陛下! 私達、ペテルブルク市の労働者および種々の身分に属する住民は、私達の妻や子、寄る辺なき年老いた親達ともども、正義と助けをもとめて、陛下の御許へやって参りました。私達は貧しく、圧迫され、無理な労働に、辱められ、人間として認められず、辛い運命をじっと黙って耐え忍ぶ奴隷のような取り扱いを受けています。私達は耐え忍んできました。しかし、私達は、ますます、貧乏、無権利状態、無教育のどん底に押しやられるばかりで、専制政治と横暴にのど元を締め付けられ、窒息しそうです。陛下、もう力が尽きました。耐えがたい苦しみがこれ以上続くなら死んだ方がましだという恐ろしい時が、私達にはきてしまいました。」ー

 このような文章から始まる嘆願書を携えた行列は行進を開始しましたが、デモは原則禁止でしたので、あちこちで兵士と参加者の流血の惨事がみられました。警察が提示した阻止線をくぐって冬宮広場に人々が集まり始めたため、ナルヴァ門に人々が近づいた際、とうとうプレオブラジェンスキー連隊がサーベルを抜いて行列に切りかかり、民衆が驚いて後ろに下がって、兵士と民衆の間に距離ができたところで、騎兵の後ろに控えていた歩兵が無差別発砲を開始しました。

 このときの情景を、ガポンが手記に書き残しています。

 
―「…『まっすぐに進みますか、それとも守備隊を避けて迂回しましょうか?』と聞いたものがある。『守備隊の隊列を突破するんだ。勇気を出せ、自由か死か!』と私は叱咤した。群衆はウラーと叫んで答えた。

 行列は、神よ皇帝を守り給えという国家を力強く合唱しつつ進んだ。死か自由か、と連呼する一群もあった。私の前には護衛が並び、傍らには紅顔の一少年が皇帝の肖像をささえて歩いた。行列の両端には労働者の家族―女や子供も―が集まっていたが、最前列には夫人が望んで立った。官憲が実力を行使しにくいように配慮したものらしかった。多数の聖像が隊列を飾っていた。

 警官隊は、はじめは傍観していたばかりでなく、中には脱帽―聖像に対してーして、付き添ってくる者もいた。

 こうして、行列は宮門(註、ナルヴァ門)に近づき、守備隊の隊列にあと二百歩の距離に迫った。歩兵の前には一陣のコサック騎兵が待機していた。長剣が日にキラキラと光るのを見て、行列は一瞬立ちすくんだ。どうするのだろう、と思う間もなく、騎兵隊は蹄の音を響かせて、猛然と襲いかかってきた。密集する行列の中に一斉に突っ込むと、右に左に剣を振り下ろして、見境なく殺傷した。考える暇も、命令を下す暇もあらばこそ。絶叫と悲鳴を残して、コサックは行列を駆け抜けたが、そこでまた、馬首を返すと、追尾から行列に割って入り、疾駆しながら再び血の雨を降らせた。

 これが終わると、守備隊はさっと隊列を開き、コサックはその間を通って、疾風のように宮門内に姿を消した。私はひるむ群衆に、進め進め、と号令したが、群衆は隊伍を整えると、憤激の表情もすさまじく、声を限りに、死か自由化、と絶望のコーラスを唱和しつつ、ひた押しに前進した。守備隊は銃を構えて待ち受けていたが、われわれが三十ヤードの距離まで肉薄すると、突如発砲した。

 群衆は無残になぎ倒された。最前列の女性群が掃射されて、まず、倒れた。続いて老人が、労働者が、子供が、そして警護の警官までが、バタバタと倒れるのだった。私の傍らに皇帝の肖像を掲げていた可憐な少年も射殺された。おおもったいない!と叫んで、地面から肖像を拾い上げた老人も、身を起こす途端にやられた。警官の一人は、皇帝の肖像に向かって射撃するとは何事だ、と怒りに声をふるわせたが、彼はたちまち撃たれてしまった。私の護衛もみな地に伏して虫の息だった。一斉射撃は一波また一波と無辜の民を殺傷したのである。…」―


 また、この情景は、のちの1917年の2月革命において中心人物となる、当時24歳のケレンスキーが見物しておりました。

 
―「そうです、ガポンは黄金の十字架をささげて、ゆっくりと先頭に歩いて来ました。十字架はキラキラと輝きました。後に続く群衆の巨大な行進は、むしろ荘厳でしたよ。みんな晴れ着を着て、皇帝の肖像を掲げ、歌いながら歩いていました。冬宮に行けば、皇帝に会えると信じ切っていたようです。少なくとも、バルコニーに現われていたわりの言葉をかけてくれるものと期待して…。だから、にわかにラッパが鳴って、コサック騎兵が剣をふるって襲撃してきたときは、何のことやら理解できず、みんな夢中で逃げまどったのです…逃げる、転ぶ、切られる、踏みにじられる…、そう、実に凄惨でしたよ。目をつぶると、あの時の恐ろしい光景が彷彿と浮かんできます。この日、この時に、帝政は終わったようなものです。

 このままでは済まされぬー私は運命の暗示におののきながら、一散に家に逃げ帰りました。」―


 トロイツキー橋、ワシーリエフ島でもコサック騎兵の襲撃と歩兵の発砲が起こり、結局この事件は、見物人と行進参加者の死傷者が1000人(死者200人)を越える大惨事となります。本人のせいではないと思うのですが、なんとも間の悪いことに、ニコライ2世はこのときツァールスコエ・セローでティータイムをとっていました。






請願行進に銃を向ける警備兵




 もちろんこの一件で長年にわたるツァーリ崇拝の気持ちが一朝にして払拭されたわけではありませんが(ことに、日露戦争後の、ウィッテによる工業化最優先策から、農村優先策へと舵を切ったストルイピンの改革によって一息つけた農民は、ソ連時代最初期には、ツァーリズムを倒したボリシェヴィキに対する頑強な抵抗勢力となります。)、「血の日曜日事件」は国民の各方面に極めて深刻な衝撃を与え、この事件に対する抗議デモが各地で起こり、革命運動が、一部過激活動家だけでなく、いよいよ一般民衆に広がり始めました。ちなみにガポン神父ですが、警察内部に知り合いが多いのが災いし、後にエスエル党員に暗殺されてしまいます。

 ここにロシア1905年革命の幕が切って落とされたのです。



       ーーーこのページの主要参考文献ーーー

 井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』中公新書、1990年。

 服部倫卓『歴史の狭間のベラルーシ』東洋書店

 中山治一『世界の歴史21:帝国主義の開幕』河出書房新社、1990年。

 加瀬俊一『ロシア革命の現場証人』新潮選書、1968年。

 松田道雄『世界の歴史22:ロシアの革命』河出書房新社。

 中山治一『世界の歴史13:帝国主義の時代』中公文庫、1995年。

 古屋哲夫『日露戦争』中公新書、1987年。

 保田孝一『ニコライ2世の日記』朝日選書、1990年。

 外川継男『ロシアとソ連邦』講談社学術文庫、1992年。

 アレクサンドル・ケレンスキー(倉田保雄、宮川毅訳)『ロシアと歴史の転換点』恒文社、1978年。

 『歴史読本ワールド:特集ロシア革命の謎』(新人物往来社)2巻2号、1991年。

 『歴史読本ワールド:特集ロシア帝国の興亡』(新人物往来社)2巻7号、1991年。


 田中陽児、倉持俊一、和田春樹著『ロシア史 2』山川出版社。 

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